第8話
季節は巡る。常夏の国で育ったフローラにとっては『四季』と言うものは当たり前に存在するものではなかった。だが、レクト王国には『四季』が存在し、気づけば盛夏も過ぎ秋になっている。
庭の樹に付いた葉の色が緑から朱や黄に変わっていけば、枝からはらりと落ちてゆく。それはフローラには不思議な事であったし、嫁いできた真冬には木と言えば葉のついていないものばかりだったという事を思い出した。
エドリックの『秘密の場所』へも彼の休暇の日に何度か向かったが、咲いている花も季節によって変わっていった。季節によって咲く花が違うのは不思議だと、フローラはそう思う。
……フローラ達の誘拐事件があった後、エドリックは裁判官を辞めた。将来的に子供が出来た時に子供が『死神の子』と呼ばれないようにしたいと、その想いで事件よりも前から国王に裁判官を辞する事を許可してほしいと願い出ていたそうだが、誘拐事件はその意思を後押ししたようだ。
『死神』のせいで、フローラを危険な目に遭わせてしまった。今後も同じような事が起こってしまう可能性が万が一にでもある以上、裁判官は続けられないとそう決意したとのことである。
エドリックは何を差し置いてでもフローラの事を最優先に考えてくれた。この時代の夫婦と言えば妻は夫の所有物であり、夫が妻を支配し対等な関係にはないものだが……エドリックは常にフローラを尊重し、対等でいてくれる。
それがどんなに幸せな事なのか……よその家の奥様から夫の話を聞くたびにエドリックが夫で良かったと思えば、彼女らにエドリックの話を聞かせればエドリックへの印象も『冷徹な死神』から『優しく素敵な愛妻家』へ変わっていったようである。
「エドリック様。少し前の私の身体と、今の私の身体……比べてどう思いますか?」
秋も深まったある夜。寝台に入った直後、フローラは神妙な顔でエドリックに尋ねた。エドリックは質問の意図がわからないのかきょとんとしたが、うーん、と少し考え込む素振りをしながらフローラの寝巻に手をかけてゆく。
「特に、気にならないけれど?」
「嘘です! 私、最近お腹が気になりまして……。よく思い出してください。数カ月前と比べたら……」
「確かに、以前より少しお腹が出ているような……? でも君は痩せすぎているから、少しくらい太ってもいいんじゃないかな」
「そんな訳には参りません! 外出時にはコルセットで締め付けていますが、これ以上ふくよかになってしまったら私恥ずかしくて外に出られません!」
淑女にとってそれは、大問題だ。男性に抱きしめられた時に片腕で回るような、そんな細い腰が理想とされた時代である。
毎日のようにエミリアとお茶をして、美味しいお茶受けのお菓子を食べているせいだと……それは自覚している。だからエミリアにも言って、お茶の頻度を減らさなければとそう考えていた。
「そこまで言う? ……でも、おかしいな」
「何が、ですか?」
「食べ過ぎで太ったのなら、お腹以外だって肉付きがよくなるはずだろう? 顔や腕や、足は以前のまま変わっていないよ」
「そ、そうですか?」
「あぁ。……そう言えば、あれきり『穢れ』は無いね」
『穢れ』とは、出血を意味する言葉が転じて月経の事を指す。この時代の女性と言うのは食事に不自由のない貴族であっても栄養が十分とは言えず、女性は慢性的に月経不順である事が多い。毎月決まった時期に訪れるものではないため『月』と言う言葉は使わない。
だからフローラに暫く『穢れ』がないのはいつもの事で、特に気にしていなかった。前回の『穢れ』が訪れたのは、エドリックが裁判官を辞した日の事で……それはもう四カ月も前の事。
その時は穢れが来たという事は、子供はできなかったと言う事だと落胆したものだが……エドリックの言葉に、フローラは『あっ』とする。
「もしかしたら、お腹に子供がいるのかもしれないよ」
「子供……? で、ですが子ができると女性は気持ちが悪くなったり、体調が優れなくなったりするものだと、私乳母にそう聞きました。私、そんな事は一度も……」
「そう言うのは、個人差があったりするんじゃないかな。明日、医者を呼ぼう」
「……もし、子供がいるのだとしたら……」
フローラは自分のお腹に手を当てる。以前より少しだけ大きくなったのは太ってしまったからだと思っていたが、もしも子供が出来たからならどんなに嬉しい事か。
だが、子供はできてもすぐにお腹が大きくなってくる事はないだろう。いわゆる悪阻で子供が出来たと気付いて、それからお腹が出てくるまでは二、三か月かかると聞いたはずだ。
だとするとフローラには悪阻がなかったとは言え、もう二、三か月前には新しい命が宿っていたという事になる。
「……エドリック様?」
「身体を冷やしちゃだめだね」
肌を重ねる事は既に日課だった。エドリックはいつものように、最早慣れた手つきでフローラの寝巻を脱がそうとしていたのだが……解いた紐を結び直してくれる。
そうしてそのまま目を細め、口角を優しく上げた。その微笑と言えば、慈愛に満ち溢れているのを感じて……
フローラを組み敷くような格好になっていたが、隣に寝転んで抱きしめられる。温もりが愛しいと、いつも以上にそれを感じた。
「その、しないのですか……?」
「子供が出来ているかもしれない。表向きの理由としては、子供が出来ればもうする必要のない事だから」
「……その言い方ですと、他の理由もございますね?」
「子供がいるかもしれないと思うと、腰が引けてしまって」
「まぁ、ふふ……」
そう言って苦く笑うエドリックを見て、フローラも笑う。まだ子供がいると決まったわけではないし、フローラ自身にも妊娠を自覚できるような何かがある訳でもない。
明日医者を呼ぶと言ってくれたが、医者に診てもらうまでの間ドキドキしっぱなしだろう。
「エドリック様、もし私のお腹に子が宿っていたら……嬉しいですか?」
「何を言うんだい? 当然だよ」
「私も、とても嬉しいです。……でもお医者様に診て頂いて、ただふくよかになっただけだと言われてしまったらどうしましょう。……立ち直れないかもしれません」
「出来てるんじゃないかなぁ……。こんなにも毎晩、愛し合っていたわけだし」
エドリックの言い方にフローラは頬を赤らめる。瞼に口づけを落とされ、少しくすぐったさを感じた。
「……でも、私が父親になるのは少し変な感じだ。きちんと父親になれるかな」
「エドリック様ならきっと良いお父様になりますわ。だってエドリック様はこんなにも私を大事にしてくださいますもの。きっと子供の事だって大切にして……」
「うん? フローラ?」
「……もし子供が生まれたら、子供ばかり可愛がって私は二の次になってしまったりしませんか?」
「何を言うんだい? そりゃあ子供の事は可愛がるだろうし大切にするだろうけど、君がいてこそだよ。君と子供のどちらが大切かなんて計れないだろうけれど、等しく大切にするから安心して」
「……はい、エドリック様」
「それに、君にも同じことが言えないかい? 子供ばかり構って、私の事なんて構ってくれなくなるんじゃないか?」
「ふふ、そんな事はいたしません。ご安心下さいませ」
お互いにそう言って笑って、その日は眠りに就く。子供が出来たかもしれないと、フローラの頭の中はそればかりで既にただ幸せだった。
翌朝……フローラはその幸せを感じたまま起きるが、隣で眠っていたエドリックはぐっしょりと寝汗をかいている。若干息も荒く、何かあったのかと不安気に声を掛けた。
「エドリック様……。おはようございます。何か、悪い夢でも……?」
「あぁ、おはよう。……何でもないから気にしないでくれ」
「何でもないは、無いですわ。私には心配させないための嘘だってつくなと仰るくせに、エドリック様はそうやって嘘をつくのですか?」
「嘘ではない、本当に……何でもないんだ。少し良くない夢を見ただけだよ」
「……その良くない夢は、予知夢ですか?」
「予知夢……いや、『預言者』の夢だ。彼は私に、最悪を避ける方法を教えてくれた。だから大丈夫、彼の言うとおりにしていれば最悪の事態は起こらないから」
言いながらエドリックは起き上がるが、やはり無理をしているように感じた。彼がフローラに心配をさせまいとしている事は、その態度でわかる。だが、言っている事もまた事実なのだろう。
しかし、フローラはエドリックの『予知夢』の事は知っていても『預言者』と言う言葉は初めて聞いた。
「エドリック様、『預言者』とは……?」
「……すまない、いくら君でも『預言者』の事は教えてあげられない」
「……そうですか」
寂しかった。家族になって久しいが、まだ言えない事があるのかと……。フローラにはもう、彼に隠しているような事はない。
嫁いできてすぐの頃は自分が体よくレフォーンから追い出されたことや、兄姉との不仲を悟られたくないと思っていたが……実際のところエドリックは把握していたであろうし、レフィーンへ行った時には兄姉との仲の悪さも露見もしている。
彼はきっと、フローラには言えない事をたくさん抱えているのだろう。口外しない方が良いだろう予知夢もきっとたくさん見ているはずだ。少しでも彼の肩の荷を下ろす手伝いをしたいと思うが、彼はそれを望まない。
全て一人で抱えないで欲しいと、フローラはそう思うが……。こんなにも愛し合っていると言うのに、それでもまだ自分はエドリックの本当の意味での支えになれない。それが寂しい。
「そんなに悲しそうな顔をしないで」
そう言ってエドリックは、にこりと笑いフローラに口づける。だが、寝汗で寝巻が濡れていると言って抱きしめてはくれなかった。
その後医者を呼んでもらい、エドリックは義父へ『今日は医者の診察が終わってから向かいます』とそう言う。どうやら彼も診察に同席してくれるらしい。
医者が来るまでの間フローラはそわそわとしていたが、入浴し汗を流した後のエドリックがずっと手を握ってくれていた。だが、彼の表情はと言えばずっと何かを悩んでいるような……思い詰めた表情のままだった。
「今日はどうされたのですか」
「妻に子が出来たのではないかと……」
「そうですか、それはそれは。少し診せて頂きます。奥様、寝台へ横になって頂いても?」
「はい……」
しばらく経って医者が来て、部屋に通せば早速診察となる。フローラはドキドキとしながら寝台に横になれば、医者は鞄からなにやら筒を取り出す。その筒をフローラの腹へ当て、反対側に耳を近づけた。
腹の中の音を聞くための道具なのだろう。子が宿っているのであれば、胎児の心音が聞こえるはずだ。
「ど、どうでしょうか?」
「ふむ、奥様。ご懐妊しておりますな。ジルカ男爵、おめでとうございます」
「そうですか……! フローラ、子供がいるって」
「はい、エドリック様……。嬉しいです……!」
子供がいるとわかっただけで、それだけで涙が溢れてきた。瞳に溜まっていく涙を、エドリックの指先がそっと拭ってくれる。
彼も先ほどまでの思い悩んだような顔から一転、とても嬉しそうな……安堵したような表情を見せてくれていた。その表情がフローラにはまた嬉しくて、涙は止まりそうにない。
「……もう、子は随分と大きくなってきていますな。奥様のお腹が目立ち始めてきているように思います」
「えぇ、妻は特に悪阻のようなものもなかったようでして……腹が出てきたと、そう言われたものですから子供が出来たんじゃないかと思って」
「そうでしたか。恐らくはもうしばらくすれば、奥様には子供の動きもわかるようになるでしょう」
「子供の動き……あぁ、早くそれを感じられるようになりたい。きっと、とても可愛らしくて愛しいのでしょうね」
「えぇ、それはきっと。奥様、これから冬へ向けて寒くなっていきますから、お身体を冷やさぬようご注意くださいませ」
医者はそう言ってグランマージ家を後にする。医者が部屋を出ていくのを見送った後、エドリックが嬉しそうにフローラを抱きしめた。彼のこんなにも嬉しそうな表情は、知り合って初めて見たと……そう思えるほどのもので、その表情にフローラもまた嬉しくなる。
「フローラ、君のお腹に私達の子がいるって」
「はい、エドリック様」
「ああ、どうしよう。今日は嬉しくて仕事が手に付きそうにない。父上へ使い魔を送って、仕事は休んでしまおうかな」
「まぁ、エドリック様ってば」
「だって仕方がないだろう? 本当に嬉しいんだ」
「私も、とても嬉しいです」
「フローラ、ありがとう。愛してる」
「エドリック様……私も、あなたをお慕いしております。愛しています」
エドリックはまるで子供がはしゃいでいるようで、そんな彼の姿は新鮮だ。強く強く抱きしめ合って、口づけて、二人で笑い合って喜んで。
それはとても幸せな夫婦の姿で……今朝のエドリックの態度の事なんて、フローラはその後すっかり忘れてしまっていた。
フローラが彼の今朝話していた『預言者』の話を思い出す事は……この喜びの記憶に上書きされ、かき消されてしまって二度と無かった。
一月もすればフローラの腹は傍目にも妊婦である事がわかるくらいには出てきて、その頃には微かに胎動も感じられるようになった。まだ外から触って感じられるほどではないため、エドリックは残念がっていたが……
更に暫く経てば腹の上から触れてもわかるようになって、エドリックは毎朝毎晩フローラの腹を撫で続けている。
その姿がたまらなく愛しくて、幸せで……。早く子供に会いたいと思うのと同時に、いつまでも子供がこのままお腹にいてくれればいいのにとも思う。
相反する気持ちを抱えながら、年末を迎えた。その頃にはすっかり冬で、朝晩だけではなく日中の冷え込みも常夏の国で生まれ育ったフローラには随分と厳しいものである。
その頃には嫁いできてもう十ヵ月。妊娠がわかってからは三か月が経っていた。
年末にある教会の一大行事、大陸の創造を祝う『創造祭』で神に祈る……今年はエドリックに出会えて、彼に嫁いで良い一年になったと感謝を。そして翌年、子供が無事に生まれ家族皆が健康に過ごせるようにと……
そして年が明けて二か月、フローラとエドリックが結婚してから丸一年の記念日にはもうすっかりお腹は大きくなっていた。だがこれでもまだ臨月ではなく、更に大きくなると言うのだから驚くものだろう。
「早いもので、私たちが結婚してもう一年か」
「はい、エドリック様。この一年、私あなたのお陰で毎日幸せでした」
「それは良かった。私も幸せだよ」
「ふふ、あとふた月もすればこの子も生まれますから……来年の結婚記念日には三人ですね」
「そうだね。あぁ、あとふた月か……待ちきれないな」
「えぇ、早く会いたいです。エドリック様、この子の名前は考えていらっしゃいますか? もうそろそろ……」
その日、エドリックは休暇を取ってくれていた。愛妻家の彼らしい行動で、フローラは嬉しくなったものだ。
今日もフローラの腹を飽きることなく撫でているエドリックへ、フローラは尋ねる。
「名前と言えば、我が家には名づけに決まりがあるんだ」
「そうなのですね。その、決まりと言うのは?」
「皆名前の頭文字が『エ』なんだよ」
「た、確かに……」
エドリックの祖父であり、この家の主であるグランマージ伯爵の名は『エルヴィス』と言う。そして彼の三人の息子の名は、上から『エルバート』『エヴァン』『エディオン』、更に義父エルバートの子が『エドリック』そして『エミリア』だ。
「では、この子も『エ』から始まるお名前なんですね」
「あぁ。……男の子だったら、おじい様の名を頂こうと思ってる」
「エドリック様は、本当におじい様の事を慕っていらっしゃいますものね」
「私の師匠だからね。魔法にしても、商売にしても。厳しい人だけど、私はおじい様の事を心から尊敬している」
「えぇ、存じております。わかりましたわ、男の子であれば『エルヴィス』と、そう名付けましょう。では、女の子でしたら?」
「まだ考えてないんだ。どうにも、男児の気がして」
「ふふ、そうでしたか。男女どちらでも良いとお義母様は仰っていましたが、やはり私は男の子を生まないといけないと言う重圧のようなものもあり……男の子であれば、良いのですが」
「そうだね。私も五体満足で元気に生まれてくれればどちらでも良いけれど、やはり我が家の跡継ぎの事を考えると男児が良いとは思うよ。だが、これだって願望で決まる物でもないしね」
「えぇ……」
「それに、娘は娘で絶対に可愛いだろうし。だから君は重圧を感じる必要はないよ。出産まであとふた月……しっかり栄養を取って良く眠って、身体を冷やさぬようにしてくれ。お産は命懸けだ。君にもしもの事があったら私は耐えられない。身体を万全にして欲しい」
「はい」
彼に肩を抱かれ、寄りかかった姿勢のままそう話す。そう、お産は命懸け。それはフローラもよく理解している。
この時代、出産が近くなると女性は遺書を書く事すらあった。それほど、出産に伴う女性の死亡は多い。また、医療も未発達であることから、生まれたばかりの赤ん坊の死亡確率も高い。生まれて数カ月以内、数年以内に亡くなってしまう子供が多いのもまた事実である。
それから、フローラは毎日子供の服を準備しながら日々を過ごした。母親が子供の服を作るのは当然の事だが、エミリアが『私、お裁縫苦手なの。お義姉様はすごいわね』なんて言いながらフローラが作った子供服を褒めてくれる。
そして春になろうと雪が解け始めた頃……いよいよその日がやってきた。朝、仕事へ行くエドリックを見送って、それからいつものように子供服を作るために裁縫をしていると腹が痛くなってくる。
前駆陣痛と呼ばれる、本陣痛に先駆けて起こる痛みはこの数日感じていた。今日もそうかと思っていたが、段々と痛みは強くなってくるし感覚も一定になってくる。
本陣痛だと気付いたのはその日の夕方頃……まさか初産で子供はすぐには生まれないだろうし、エドリックの仕事だってあと一、二時間で終わるだろうと特に連絡はしなかったのだが……
彼が帰宅した後『どうしてフローラが産気付いたと連絡を寄こさなかったんだ』と執事が怒られており、申し訳ない事をしたとそう思った。
「痛た……」
「痛みを消してあげたいけど、魔法で痛みを消すのは駄目だと言われてしまった」
「だ、大丈夫です。これは母親になるための試練で……痛いっ」
フローラはいつも寝ているエドリックの部屋ではなく、自室の寝台に横になっていた。エドリックが腰をさすってくれるが、定期的に来る痛みは尋常ではない。
だがそれでもまだ陣痛の感覚は長く、子供は生まれない。苦しいのは自分だけではない、赤ちゃんだって頑張ってると……フローラはそう自分に言い聞かせた。
そうしているうちに深夜になり、エドリックは産婆に部屋を追い出された。陣痛の感覚が短くなってきて、そろそろ出産の体制に入れそうだと判断されたからである。
出産の場は、男子禁制。これが例え王家の出産だったとして、国王が立ち会いたいと言ってもそれは許されないのが絶対の規則。エドリックも渋々と隣の部屋へ戻って、フローラは一人陣痛と戦う。
もう、この陣痛が何時間続いていたのかわからない。あまりに痛みが続いたせいで、意識もなんだか朦朧としている。いつ寝台から分娩椅子に移動したのかも記憶にないが、本格的な陣痛の開始からは半日ほどかかってついに子が産声を上げた。
初産の妊婦としては、これくらい時間がかかるのは当然で『安産でしたよ』と産婆に言われたが、正直『これで安産?』と思ったのは言うまでもないだろう。
「奥様、元気な男の子です」
「そうですか、良かった……」
「産声が聞こえた! 産婆、入っても良いか?」
「いけません、ご主人! 奥様と赤ん坊の処置が終わりますのをお待ちください!」
産声を聞きつけたエドリックが部屋の外から言うが、産婆はぴしゃりと言い放つ。エドリックも早く子供を見たいだろうし、抱きたいだろう。
ふにゃふにゃと泣いている赤ん坊の身体をお湯で綺麗にして、産着を着せた後やっとフローラも子供の顔を見る事が出来た。
まだ薄い髪の毛は、エドリックによく似た色。目をぎゅっと閉じているから、瞳の色はまだわからない。小さな手を握って、口を大きく開けてふにゃふにゃと泣いている。
「あぁ、なんて可愛らしいの。あなたに会えて、お母様は幸せよ」
産婆がフローラに子供を抱かせてくれる。とても小さくて、でも暖かくて……頑張って精一杯育って生まれてきてくれたのだと感動せずにはいられなかった。
フローラの処置も終わって寝台へ子供と共に戻って、それからやっと部屋に立ち入りを許されたエドリックが部屋に入ってくる。彼も一睡もしていなかったと言う事のようだが、子供の姿を見て両目に涙を溜めた。
「男の子だから、君の名前は『エルヴィス』だ。元気に育つんだよ」
エドリックがそう言いながら赤ん坊を初めて抱いた姿を……フローラはきっと生涯忘れないだろう。まるで幸せを具現化したような、そんな光景だった。
「フローラ、母子共に無事で、元気で本当に良かった。君も疲れただろうし、ゆっくり休んで」
「ありがとうございます、エドリック様」
「そう言えば乳母だけれど、母上の知人が紹介してくれると……」
「その事ですが……乳母はいりません」
「え?」
「私、自分のお乳で育てたいんです」
貴族の家で乳母を使わないなんてことは、常識では考えられない事だった。とは言っても貴族が乳母を使う理由、その大半は社交のためである。乳飲み子を連れて晩餐会や舞踏会には参加できないから、乳母を使い子供の面倒は乳母へ任せて貴族女性は社交の場へ出る。
他には乳をやると胸の形が崩れるなど、見た目を気にする貴族らしい理由もないわけではないが……社交はエドリック同様フローラも苦手だったし、彼が社交の場に出ない以上妻だけでそこへ向かう訳にもいかない。
つまり乳母を使う理由がない以上、自分の乳で育てたいと言うフローラの願望は特別おかしなものではないはずだ。だが、それは貴族の常識からは外れた考えだったのである。
「でも……」
「私が社交の場に出る事はほぼ無いでしょうし、自分のお乳で育てる事に不都合はございません。私が自分の手で、育てたいんです。勿論、アンや使用人達にも手伝ってもらう事もたくさんあるとは思いますが……」
「……君がそう言うなら、君の意思に従おう。だが、乳母を使いたくなったら言ってくれ。その時には紹介してもらおう」
「えぇ、わかりました」
「ふえぇぇ……」
丁度話が終わったところで、エルヴィスがか弱く泣く。お腹が空いているのかもしれないと産婆が言うので、早速乳を吸わせてみる。
母体とは、不思議な物だ。出産する前は母乳なんて出る気配もなかったと言うのに、出産が終わって子に乳を吸わせるうちに自然と出てくるようになると言う。
エルヴィスははじめ上手く乳が吸えずにそこでまた泣いて、やっと吸えたと思えばまだフローラの乳から母乳はほとんど出ない事にも不満で泣く。
産婆にも『精神的な余裕の無さで更に母乳が出なくなるから焦らない方が良い』と言われながら、やっとの事で絞り出したような数滴の初乳をエルヴィスに吸わせた。それで足りない分は、砂糖水を飲ませる。
「お前がいっぱい吸えば、母上の母乳もしっかり出るようになるんだって。だからお前は、お腹が空いたら頑張って吸うんだよ」
その後すやすやと眠ったエルヴィスを抱き、頬をツンツンと突きながら……寝台に腰かけたエドリックが言った。
「エドリック様は、子供がお好きなのですか?」
「あまり考えた事は無かったけど、エルヴィスは自分の子なんだからすごく可愛いよ。でも、よく考えたら私は素直な人間は好きなんだ。そう考えると、赤ん坊は欲求に素直だから好きだね。嘘なんてつけないし、お腹が空いたり眠くなれば泣いて訴える。実に欲求に素直だろう?」
「ふふ、そうですわね」
エルヴィスを優しく見つめるエドリックの姿にフローラは幸せを感じながら、そっと瞳を閉じる。出産で興奮していたのか、疲れてはいたものの中々眠気が来なかったのだがようやく少し眠れそうになってきた。
「フローラ、寝るのかい?」
「はい、少し眠気が……」
「そうか。では、私も一緒に寝てもいいかい?私も寝ていなかったから」
「はい、もちろんです」
エドリックはエルヴィスをフローラの隣に寝かせると、一旦寝巻に着替えると言って部屋を出る。すぐに戻って来て、エルヴィスを挟んで寝台に寝転がって、いつものようにフローラを抱き寄せた。
違うのは間にエルヴィスがいる事だが、それがとても幸せで、幸せすぎて……
『家族』の本来の暖かさに、フローラの瞳が熱くなる。それに気づいたのかエドリックはフローラの瞼にそっと優しく口づけてくれた。
その幸せを感じながら、フローラは深い深い眠りへと落ちていった。
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