第9話
フローラが初子となるエルヴィスを生んでから六年。育児は大変だったが家族としては順調で、エルヴィスが六歳となった時には二歳半になる長女・エルミーナと一歳になったばかりの次男・エドガーも生まれていた。
この六年の間、家族が増えたこと以外に大きく変わったことと言えば……まずはエルヴィスが一歳になる少し前、十七歳の誕生日を迎えエクスタード家に嫁入りするはずだった義妹のエミリアが突如失踪した事が一番の大事件だっただろう。
エミリアと言えばフローラがエルヴィスを生んだ直後から『結婚して幸せか』『子供を産んで幸せか』と言ったような事を度々聞いてきた。彼女も結婚まで残り一年を切り、結婚が現実味を帯びてきたところで嫌になったのだろう。
一般的に囁かれるような『女の幸せ』……即ち結婚して子を産み育てる事を、彼女は幸せだとは思えなかったのだ。婚約者であるレオンの事は好きだが、結婚はしたくない。子供も産みたくない。彼女はそう思っていたようだ。
何より彼女は魔術師としてその腕を磨く事を誇りに思っていた。エクスタード家に嫁げばレオン……ブラハード候の妻、そしてゆくゆくはエクスタード公爵夫人として生きなければいけない。魔術師としては生きられない。彼女にはそれが耐えがたい事だったのだろう。
結婚式に着るためのドレスを仕立てて、それを部屋に飾って……睨みつけるようにじっと見ていた事を、フローラは知っている。籠の中の鳥だったエミリアは、籠に鍵がかけられる前に扉をこじ開け広い世界へ飛んで行ってしまったのだ。
更に、その四年後……つまりは今から二年ほど前。騎士団と魔術師団が、北方・シルヴァール公国との国境付近にある谷に飛竜討伐へ出た。その際、騎士団を率いていたレオンの父……ベイジャー・エクスタード公爵が殉死した。
それでレオンは公爵と騎士団長の座を引き継ぎ、今や大忙しのようである。エドリックも彼の親友として、何かと協力はしているらしい。
また、去年レフィーンの首都・プラティスを北に進んだ山脈の中に金鉱が発見された。それを聞きつけるや否やエドリックは飛ぶようにレフィーンへ向かい、フローラの兄・ルドルフへその金を独占採掘する権利の買い付けを直談判してきている。
金を採掘したいと言う者は五万といるが、その権利はグランマージ家が見事に買い取ったそうだ。採掘後は金の精錬も必要になるが、それらも全てグランマージ家で行っておりレフィーンにおける金市場はグランマージ家が牛耳る形となる。
エドリックは何も言わなかったが、フローラは『このための結婚だったのか』と……彼の予知夢の事を知っているからこそ、そう思う。
だがきっかけはそれだったにしても……今は互いに、純粋に愛し合っている。可愛い子供も三人もいる。それだけで幸せだ。
そして今……グランマージ家では一つの節目を迎えようとしている。当主でありエドリックの祖父であるエルヴィス・グランマージ伯爵は病に伏せ余命幾ばくかも無いと言う状態だった。
「おかえりなさいませ、エドリック様」
「ちちうえ、おかえりなさい!」
「おとうさま、おかえりなさい!」
「あぁ、ただいま。エルヴィス、エルミーナ、いい子にしていたかい?」
「はい!」
「フローラ、おじい様は……」
「今日はお元気そうでしたわ。ですが咳も中々治まりませんし、本当はお辛いと思います」
「そうか、そうだよね……」
フローラが抱いていた次男のエドガーを受け取りながら、エドリックは言う。子供達を皆平等に可愛がってくれるエドリックは、こうしてフローラと子供達が出迎えてくれることが今は何より嬉しいらしい。
「おじい様のところに行ってから食事にするよ。先に食べて待っていて。子供達もお腹を空かせているだろう?」
「えぇ、わかりました。先に行ってますわ」
「ちちうえ、ぼくもひいおじいさまのところにいきます」
「そうかい? じゃあ一緒に行こうか」
「エルミーナも!」
「はは、じゃあフローラ。エドガーを頼むよ」
「はい」
エドリックはそう言ってフローラにエドガーを戻すと、子供二人と手を繋いで祖父の部屋へと向かう。フローラは次男のエドガーを連れて食事へ向かうが、子供の食事には時間がかかる。
エドガーの食事がやっと半分終わったころに、エドリックは子供二人とともに戻ってきた。
「どうでしたか?」
「もうきっと長くはないだろう。身体のあちこちが痛むようだったから、痛まぬよう魔法をかけてきたけれど効き目は数時間と言ったところだから気休めにしかならない」
「そうですか……」
「……エミリアが、きっとそろそろ戻ってくる」
「エミリア様ですか?」
「あぁ。五年前……エミリアがいなくなる少し前に見た夢だ。誰かの葬儀……あれはきっと、おじい様のものだと思う。その場にエミリアと思われる女性がいた。夢を見た頃のエミリアはまだ子供だったけれど、数年先の出来事になるとはわかっていたから……あれはエミリアだろうと思っていたんだ」
エミリアももう二十二歳になって、大人の女性と言うには十分だろう。エミリアの帰りを待ち、婚約破棄をせず独身を貫いているレオンのためにも……もう長くない命の中でエミリアのことを心配し、彼女の花嫁姿を見られない事だけが心残りだと言っている祖父のためにも、早く戻って来てあげて欲しいとフローラは思った。
それから少し経ったある日の事である。フローラはその日、義母・イザベラと共に王宮へ出向いていた。王妃のお気に入りであるイザベラと共に、王妃のお茶会によく招かれるのだ。
子供たちは使用人達が面倒を見てくれている。本来であればこういう時乳母が面倒を見るが、三人の子いずれも乳母を使わなかったので使用人に助けてもらっていた。
王宮の庭園でお茶をしていれば、通りを馬に乗ったエドリックと義父・エルバートが駆けてゆく。何かあったのかと思いながら、席を離れる事はできず……昼食をご馳走になった後で義母と屋敷に戻れば、出迎えた執事が開口一番に告げた。
「奥様、エミリアお嬢様がお戻りに……」
「エミリアが!? 今どこにいるのです!? すぐに案内なさい!」
「はい、こちらです」
「お義母様、私も後で参ります。まずは子供達のところへ行ってきますわ」
「えぇ、そうなさい」
フローラはまず子供達の元へ。エルミーナとエドガーは全く何も気にしていないようで母の帰りを純粋に喜んでくれたのだが、長男エルヴィスは使用人達の動きがいつもと違う事や、エドリックとエルバートが先に帰ってきている事には気づいていたようだ。
エドガーを抱き上げ、エルヴィスとエルミーナを連れエミリアがいると言う部屋へ案内してもらう。家族一同勢ぞろいしている中で、美しく成長したエミリアと……彼女の婚約者であるレオンも来ていたようだ。
エルミーナはレオンの事が大好きで、レオンを見つけると『レオンおじさま!』と言ってちょこちょこと走ってゆく。レオンはいつものようにエルミーナを優しく受け止め、抱き上げてそのまま膝の上に座らせてくれていた。
「この子は、兄様の子?」
「あぁ、そうだ。エルミーナだ」
「レオンおじさま、このひとだぁれ?」
「エミリアだ。君の叔母上だな」
「エミリアおばさま?」
「うっ……初対面の子に『叔母様』って言われるのは、なんだか切ないわ」
「エミリア、お前が五年もいないからだ。五年も経てば、我が家に子供が増えるのは当然だろう?」
「そうかもしれないけど……そこにいるのがエルヴィスね。他にこの子と……お義姉様、久しぶりね。……お義姉様が抱いている子。三人?」
「お久しぶりですわね、エミリア様。お元気そうで何よりですわ。えぇ、三人です」
エドガーは初めて見るエミリアに人見知りをしたのか、ぷいっと顔を背けてしまった。まだまだ人見知りをして恥ずかしがる時期である。エルミーナは動じていないようだ。
「どうしてレオンは『おじさま』なの?」
「君と結婚したら叔父になる。その時に呼び方を変えるよりも、幼い頃からそう呼ばせておく方が良いと思ってな」
「……私が帰ってきたのは偶然よ。帰って来なかったかもしれないじゃない」
「その心配を、レオンはしていなかったという事だ。私が伝えていたからね、お前が帰ってくることは」
「……兄様、そのさも当然のように……自信満々に言われるとなんだか腹が立つわ。やっぱり私、兄様の事嫌い」
「今更好きになってくれとは言わないよ」
エドリックはそう苦笑いしながら、レオンの膝の上に座っているエルミーナに『おいで』と言うように手を差し出す。だが、エルミーナはレオンの方にぎゅっと抱き着いた。その姿に、父親として若干落ち込んでいるようである。
フローラはくすくすと笑いながらエドリックの隣に座って、代わりにエドガーを彼の膝の上に座らせた。
その後、エミリアの話を聞く……彼女は今日からグランマージ家に戻るのかと思いきや、連れがいて一緒に宿をとっているから今日は宿に戻るとのことである。夕飯だけレオンもグランマージ家で共に食べ、それからレオンが宿まで送るとそう言っていた。
そして翌日……事件が起こる。エミリアが一人北の谷……レオンの父が殉死した飛竜の巣食う地へ向かったと言う報せが入ったのだ。確かに彼女は朝早く一度屋敷を訪れ『魔力の樹』から抽出される樹液を用いて魔力を回復させる薬を『ありったけ出して』と言いに来ていたそうだが……
そして、今は城下から出る事を国王に禁止されていたはずのレオンもエミリアを追って街を飛び出したと言う。昔から、レオンはエミリアの事となると周囲が見えなくなるのは困ったものだとエドリックは言っていた。
フローラがその話を聞いたのはレオンが街を出てから数時間経ってからの事で……そろそろ騎士団がレオンの助太刀のために城を出発すると言う頃、彼はエミリアを連れて街に戻ってきたとのことだった。二人に怪我はなく、話を聞いていただけのフローラも安堵した。
だが、エミリアは魔力を使い果たして倒れてしまったとの事で、宿で療養しているらしい。
グランマージ家としては、そのエミリアの振る舞いはもう捨て置いておけるものではなかった。彼女が何を言おうが、どれだけ拒否しようとも、もうグランマージ家へ連れ戻すよりほかない。
一歩間違えば、エクスタード家の跡継ぎであるレオンまで飛竜の餌にしてしまうところだったのだ。レオンには兄弟はいない。叔父がいるのでレオンが死んでも叔父の家系でエクスタード家を継いでいく事にはなるが、レオンは国の宝と言うべき逸材であり単にエクスタード家を継げる人間がいるから良いと言う訳ではない。
だからこそ、城下の外へ出るのを禁止されていた訳である。レオンの謹慎は免れないだろうが、レオンを城下の外へ出させてしまったエミリアが悪いのは明白だ。
レオンの父が存命のうちは、両家間でレオンとエミリアの婚約破棄の話も出ていたそうだが……レオンが断固としてそれを拒否しており、幸いにも二人の婚約は解消されていない。
エミリアを連れ戻したらすぐさまレオンと結婚させてしまおうと、義父はそのつもりだったようである。翌日、グランマージ家の者が宿を訪ねエミリアを連れ戻したのと同時に……城から二通、手紙を持った兵がやってきた。
「舞踏会……ですか。こちらは私とエドリック様宛てで、こちらはエミリア様宛てですね」
「舞踏会? どうして私が……」
「レオン様と参加しろと言う事でしょうか」
それを受け取ったフローラは、エミリアに招待状を渡す。自分達にも招待状は出ているが、エドリックは出るはずないだろうと言う事はフローラにはわかっていた。
「嫌よ。体調だってまだ万全じゃないし、行ったら行ったで結婚の外堀を埋められそうだもの。……レオンですら昨夜、もう旅は止めて自分の側に居て欲しいなんて……」
「……お義父様は、エミリア様を連れ戻して強制的にレオン様と結婚させようと思っているようですわよ」
「それは嫌。私はまだ外の世界で生きたいの。体力が戻ったら、また旅に出るわ」
エミリアは頑としてその姿勢を崩さない。フローラとしては、エミリアはレオンと結婚した方が良いと思っているのだが……エミリアの気持ちを無視して結婚する事を、レオンも望まないだろう。当然、彼は一日でも早くエミリアと結婚したいと……その気持ちも持ち合わせているのだが。
そしてそのまま夕方になって、今日のエドリックの帰宅は随分と早かった。エミリアはエルミーナ達と遊んでくれていたが、エドリックが舞踏会の準備をしていないエミリアに向かって言う。
「舞踏会に行かなくていいのかい?」
「行く必要、ある?」
「レオンは強制参加のようだよ」
「私がいなければ、レオンは壁の一部になるだけでしょう?」
「今まではな。……お前、招待状を持ってきた使者に聞いていないのか?」
「何を?」
「今日の舞踏会は……お前がレオンの手を取らないのなら、レオンとアントニア王女の婚約が発表される事になる。お前がレオンとの結婚を受け入れるなら、話は別だけれど」
フローラも、エドリックのその言葉に驚きを隠せなかった。
国王も、いつまでも結婚しないレオンに痺れを切らしたという事だろう。レオンはもう、二十七歳。この年で結婚していない貴族の跡取りなど、考えられないものだ。
それで飛竜の餌になってしまう可能性すらあったのだから……早く結婚して子供を作れと、国王はレオンにそう言ったのだろう。それでエミリアがレオンと結婚しないのならと浮上した相手が、レオンに淡い恋心を寄せるアントニア王女だったという事だ。
それを聞いて、エミリアの目の色が変わった。
「兄様……それ、本当なの?」
「あぁ、本当だ。私が嘘をつかないのは知っているだろう?」
「……王女(あのこ)とレオンが結婚するのは、嫌だわ。この五年のうちに婚約は破棄をして他の令嬢と結婚してるかもって、もしそうなら仕方がないって思っていたけど……王女(あのこ)だけは嫌」
「だったら、大人しくレオンと結婚するんだな。この五年、ずっとお前の事だけを想い続けてくれていたレオンの事を裏切りたくないだろう?」
「……だからレオン、昨夜なんだか態度がおかしかったのね。急がないのに、急いでサークレットを贈ってきたのも私とのことを諦めるつもりだったから……今から準備して、間に合うかしら」
「仕立て屋はすぐに呼んでやるよ。昔着ていた舞踏会用のドレス、急いで仕立て直してもらえ。フローラ、もし仕立て直しがきつそうなら君のドレスを貸してあげてくれるかい? それでも少しは直す必要があるだろうけれど」
「え、えぇ。勿論ですわ」
「王宮にも、連絡を入れといてやるから」
「……ありがとう、兄様」
そうしてエミリアは急いで舞踏会の準備をして、王宮へ向かったが……エドリックはその事を満足そうに笑っていた。
きっと、エミリアから『ありがとう』と、そう言われたことが嬉しかったのだろう。あれだけエミリアに避けられ嫌われていたのが、五年振りの再会で少しだけでも距離が縮まったのだろうと……
その夜、レオンはエミリアへ改めて求婚しエミリアはそれを受け入れる事になるが……エミリアが城へ行っている間、グランマージ家には医者が来ていた。
祖父が吐血したのだ。鎮静効果のある魔法をエドリックが強くかけ、祖父は眠ったようだが……もう見ていられない程に、祖父の容態と言えば悪化の一途を辿るばかりだ。
「エドリック様、おじい様は……」
「きっともうだめだ。最後にエミリアの花嫁姿を見せてやりたかったけど、エミリアが戻ってくるのは少し遅かった」
首を振って言う。屋敷の中でなら花嫁衣裳を着たエミリアを見せてやれないかなど、いくつか考えもエドリックの中にはあるようだが……
だが、それは思わぬ形で現実となる。正式な式は後日改めて挙げるとして、仮の……祖父に見せるためだけの式を先に行う事になったのだ。
それは求婚からたったの二日後の事。レオンが日頃から懇意にしている、城の大聖堂の次に歴史のある聖ヴェーリュック教会で身内だけの挙式。
特にエドガーが大人しくしてくれるか心配だったが、式の間は眠っていたので騒がしくなることもなく……
そして、祖父はその式の終わりを待たずに命を落とす。最後にエミリアの花嫁姿を見られて本望だったのかもしれない。祖父の命の灯が消える時には、エドリックも目に涙を溜めていた。
「夫人、すまないが一つ頼まれて欲しい事がある」
「まぁ、私にですか?」
それから暫く経って、ある日レオンと彼に嫁入りしたエミリアがやってきたと思えばフローラに頼みがあると言ってきた。またエドリックに社交をすれとか、そう言う話なのだと思ったのだが……
「……これはまだ、ここだけの話でお願いしたい。実は、私の父に隠し子がいた」
「か、隠し子ですか?」
それは意外過ぎる言葉だった。レオンの実母はレオンが幼い頃に亡くなっており、今レオンの母として屋敷に居るのは後妻と言う事になる。その後妻とベイジャー卿が上手く行っていない事は、公然の事実であった。
レオンの父親、故・ベイジャー卿の事はフローラも良く知っている。何度か会った事もあるが、公爵として騎士団長としてそれは立派な人だった。特に女性関係が派手と言う話もなく、真面目だが気さくな人だったと言う印象だ。
「あぁ。私も知ったのは二年前だが……父が継母と上手く行っていなかったのは、恋人がいたからと言うのが理由のようだ。私の記憶では、子供はできなかったにしろ私が十歳頃まではそれなりに上手くやっていたような気はするんだが、それ以降は……父は使用人の一人と愛し合っていたようでな」
「その、恋人の子が二年ほど前に見つかったという事なのですね」
「あぁ。この度その子を、正式に我が家で受け入れる事にした」
それは衝撃的な言葉である。確かに、ベイジャー卿の子なのであればエクスタード家で受け入れるのも問題はないだろう。だがレオンの継母、ベイジャー卿の後妻がそれを良しとするのだろうかと……
言ってしまえば、その子はフローラと同じ立場。母は、フローラの事をとにかく嫌っていた。同じような事になるのであればその子が可哀想だと……
「継母には、領地へ戻ってもらう。二人を鉢合わせさせるような事はしない」
「そうですか、それであれば良かったですが……。それで、私に頼みとは?」
「その子は娘なんだ。教会で育ってきたから一通りの礼法は問題ないが、淑女教育を受けているわけではない。エクスタード家の娘として恥じぬよう、教育をお願いできないだろうか」
「私が、ですか?」
「お義姉様以上にアリアの教育係に適任はいないわ。だってお義姉様は、レフィーンの公女だもの。厳しく教えられてきたでしょう? 私は礼法の授業なんて人に教えられるほど真面目に受けてこなかったし」
「確かに、私はレフィーンの公女として淑女教育もかなり厳しく躾けられましたが……人に教える事ができるでしょうか」
「将来、エルミーナにだって教育しなければいけないんだ。その練習だと思ってくれればいい」
確かに将来的には、娘・エルミーナにも淑女としての教育は必要だろう。まだ二歳半だが、それでも基本的な礼儀作法には気を付けているつもりだ。今後の教育のため、とそう思えば引き受けるのも気が楽かもしれない。
何よりもエドリックの親友であるレオンからの直々の頼みである。今まで彼にも世話になってきているし、レオンとエミリアが結婚した今では義兄弟の関係でもあるし無下にも出来ない。
「わかりましたわ、引き受けます。エドリック様も反対はしないでしょうし。それで、妹様はお幾つなんですの?」
「十五だ」
「教会で一通りの礼法は教わっていて、年齢も十五歳でしたらそこまで大変ではなさそうで安心しましたわ」
「えぇ、とても可愛らしくていい子よ。名前はアリアって言うの」
「アリア様ですね。いつ頃から伺えば?」
「実はアリア本人には、彼女の父親の事はまだ伝えていない。アリアを迎え入れる準備をしているところで……準備に一月くらいはかかるだろう」
「わかりましたわ。それまでに、私も諸々準備いたしますわね」
「あぁ、お願いする」
「その……隠し子の事はここだけの話でという事ですが、エドリック様にはお伝えしても?」
「あぁ、それは問題ない。エドに隠せるわけもないしな」
レオンがそう言って、レオンとエミリアはグランマージ家を後にするが……その夜、エドリックと寝台の中で話をした。エドリックは『ベイジャー卿に恋人がいて、子供がいた事も実は知っていた』とフローラに笑って言う。
「レオンの妹は、レオンとエミリアの仮の式を挙げた聖ヴェーリュック教会の子だよ」
「え? では、私も見ていましたか?」
「あぁ、見ているはずだ。でも意識しては見ていないから思い出せないんじゃないかな」
子供が生まれても、眠る前だけは二人きりの恋人の時間だった。数時間置きの授乳が必要な、まだ赤ん坊のほんの小さなうちは子供と一緒に寝ていたが、寝る前に授乳すれば朝まで授乳が不要になってから夜は使用人に預かってもらっている。
そうでもしなければ二人きりの時間が取れない。夫婦となってもう七年が経つが、それでもまだ恋人同士の甘酸っぱい時間は必要なのである。
その日もいつものように甘い時間を過ごしてから眠り……とは言っても、十代の頃のように何度も何度も交わるような事は無くなったが……翌朝、エドリックはがばっと飛び起きた。
「……エドリック様?」
「あ……あぁ、すまない。起こしてしまったね。おはよう」
エドリックは言いながら、フローラに口づける。何か悪い夢を見たのだろうかと心配になったが、エドリックはフローラの頭を撫でながら『心配しないで』とそう言った。
「おはようございます。何か悪い夢を?」
「不吉な夢を見た。……このままでは、レオンが死ぬ」
「レオン様が?」
「あぁ。それだけは、何としても阻止しなければ。……フローラ、すまないが次の休暇に領地へ行ってみる」
「領地……ですか?」
「あぁ。領地に行って、エルフへ尋ねたい事が出来た。そうか、昔見た夢はこの事だったのか」
エドリックはそう納得しているが何の事か……だが、嫁いできて間もない頃にエミリアが『兄様は、いつかエルフのところへ行く夢を見ている』と言うような事を言っていたのを思い出す。
次の休暇と言えば三日後だ。最近は天気も良いし、家族で馬車に乗って街の中を散策しようと言っていたのだが……それは残念ながら延期になってしまうらしい。
仕方がないが、エドリックが言うにレオンの命が掛かっているようだし……嫌だとは言えないだろう。
「わかりましたわ」
「ごめんね、みんなで出かける予定だったのに。埋め合わせは必ずする」
「いいえ、レオン様の命がかかっているとのことですので……」
そして三日後エドリックは朝早く領地へ向かったが……そのエドリックの不在を狙ったのかエミリアがやってきて、祖父が使っていた研究室と呼ばれる部屋で何か探し物をしているようだった。
「エミリアおばさま」
「なぁに、エルミーナ」
「おばさまはレオンおじさまがすきなの?」
「もう、おませさんね。大好きよ。だから結婚したの」
「エルミーナもね、レオンおじさまだいすき。おじさまはね、くるときいつもおかしをもってきてくれるの。それにね、えほんをよんでくれるのよ」
「ふぅん、そうなの」
エミリアが帰る間際に、エルミーナがエミリアに話しかけていたが……エルミーナはエミリアの子供の頃にそっくりだと、義父母もエドリックも言っていた。そんなエルミーナが可愛くて仕方がないのか、レオンはエルミーナをとても甘やかしている。
国一番のモテ男の膝に乗せてもらい、絵本を読んでもらっていたなんて国中の女性から嫉妬されそうな事を彼の妻に嬉しそうに話す娘。今日レオンが帰ってきた後に、嫉妬したエミリアに叱責されなければ良いがと思いながらエミリアを見送ると、エドリックの使い魔がやってくる。
『帰りは明日になる』とそう書いてあって……エドリックがいない夜は久しぶりだった。エドリックがいない夜は、子供達と一緒に寝る。久しぶりに一緒に寝ると、子供達も皆嬉しそうにしてくれてとても可愛くて愛しい。
「じゃあみんな、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
三人の子を、全員抱きしめては寝られないのが残念だが……まだエルヴィスしかいなかった頃、エドリックが不在の夜はエルヴィスを抱きしめて眠ったのが懐かしい。
そしてまた一月ほど経って、レオンの妹……アリアの教育係としてエクスタード家に通う日々が始まる。伯爵家であるグランマージ家よりの本宅よりも、公爵家であるエクスタード家の王都私邸の方が作りは豪華だ。
レオンの妹・アリアはとても可愛らしく勤勉な少女だった。教えた事をしっかりと覚えてくれるし、元々の姿勢も良く言葉遣いも丁寧できっとすぐにレオンの妹として貴族達にお披露目できるような令嬢になってくれるだろうと感じる。
暫くエクスタード家に通う日々を続けていたが、またある朝エドリックが飛び起きる。また何か予知夢を見たのかと……フローラは眠い目を擦りながら尋ねた。
「今日にでも、魔物が押し寄せてくる。サンレーム地方だ。すぐにサンレーム辺境伯に使いを送る。陛下にも、謁見を申し出て騎士団と魔術師団を派遣しなくては」
「では、エドリック様も向かわれますか?」
「そうだね。そして、今日から暫く帰って来れないと思う」
「……そうですか」
「いつも言うけど、心配しなくて大丈夫。サンレーム地方は距離としては数時間で着くけれど、魔物の数が多くて数日かかると思う。その間君と子供たちには寂しい想いをさせてしまうけれど……」
エドリックが口づけてくれるが、心配はしない訳がない。エドリックが規格外に強い事も知っている。それでも、心配は心配だ。
遠征の時はいつも、無事を祈り待つことしかできないのがもどかしい……。それが、数日だと言う。
エドリックはすぐに出発の準備をしてサンレーム辺境伯へ手紙を書き、使いを私邸に走らせる。エドリック自身はレオンとサンレーム地方出身であるレオンの従者・アレクに声を掛けてから王宮へ向かうとそう言った。
彼の背を見送り、それからは毎朝毎晩の祈りの時間には子供達と共にエドリックの無事を祈る。エドリックはサンレーム地方なら使い魔が届くとそう言って、毎朝手紙を括りつけた鳥を飛ばしてくれた。
無事を知らせる頼りは嬉しいものだ。フローラも毎日『今日の無事をお祈りしています』と、使い魔の向こうのエドリックへ伝える。子供達も、その使い魔に話しかければ父に声が届くと理解していて『早く帰ってきて』と毎日言っていた。
そして、数日後に騎士団と魔術師団は凱旋する。遠征時にはいつも城門の方へ出迎えに行くが、今日も例に漏れず子供達と出迎えに行って夫の無事を確かめた。無事だと知っていても、無事に帰って来てくれたことが嬉しくて毎度涙が溢れてしまう。
その事件はサンレーム地方襲撃事件として歴史に残るが……この事件が今後の運命を大きく揺るがしたと、そう言っても過言ではないだろう。
……事件から数カ月の間エドリックは裏で色々と動いていたようだが、フローラはその事を知らなかった。
隣国ゼグウス王国から和平の打診があったのもサンレーム地方襲撃事件の後だ。ゼグウス王国と言うのは、サンレーム地方の国境を越えた向こう側の国。互いに王都は国境の割と近くにあるので、馬車でも朝早くに出れば一日あれば到着するほどの距離である。
そのゼグウスとは百年ほど前から戦争が続いていた。当時はいなかった魔物と言う人類共通の敵が現れた事により停戦し、今でもその停戦状態が続いていたが……和平には今日まで至っていない。
その和平交渉にもエドリックは出向いた。何事もないだろうと思って送り出したが、一触即発の空気の中飛んでしまった一本の矢から戦になったと聞かされた時には血の気が引いて倒れてしまうと思った程だが……その戦いにレクト王国は勝利し捕虜を複数得たという事だった。
そしてその後とある日また突然『領地へ行く』と言って出て行ってしまう。今度は領地のエルフが魔物に襲われ、それを助けに行くためという事で……事実上の出兵。
……また不安なまま彼の帰りを待つが、帰ってきた彼は真剣な顔でフローラに話があると言うのだ。フローラはこの時、四人目の子の妊娠がわかったばかりだった。
「どうかされたのですか?」
「ゼグウスへ行こうと思う」
「ゼグウスへ……? 何のために?」
「和平のためだ」
そう言ってエドリックは、一通の手紙をフローラに差し出す。それはかの国の王妃から、エドリックへ個人的に届けられた手紙だった。戦は和平で良いが、和平の条件として今回の戦の賠償をして欲しいと言う内容である。
だが、その手紙は脅しに近い物。王妃はとてつもない金額を賠償として要求しており、エドリックが来れば賠償金は無しにするとそう読み取れた。
それを拒否すればとても払えない賠償金をどうするかの問題が起こる。そうなれば、和平どころではなくまた戦になってしまう。
エドリックは言う。王妃は何らかの力で魔物を操ることができると。魔物という、無限の軍隊で襲ってくると。
「なぜ、エドリック様なのですか……」
「それはゼグウスへ行って王妃と話してみなければわからない」
「嫌です、敵国にお一人で向かわれるなんて……!」
「では王都が魔物に襲われるのを指を咥えて待てば良いかい? きっとたくさんの人が死ぬ。大陸中の魔物を集められたら、いくら私でも対応しきれずに死んでしまうかもしれないよ」
「それは……」
「私だって行きたいわけじゃない。でもわかってくれフローラ、君達を守るためなんだ」
「……ですが」
「心配なのはわかるよ。魔物相手じゃないし、何があるかわからない。でも、私が行かなければ……時間を稼げない」
「それは、どういう……」
「……少し前に、予知夢を見ている。この街が魔物に襲われる夢だ」
「そんな……」
「行かなければ戦になって、そうなれば魔物はすぐに来るかもしれない。行けば時間を稼げるはずだ。わかってくれ。それと」
「……それと?」
「魔物が襲ってくるとわかっているこの街に、君と子供たちを置いておけない。私が迎えに行くまでの間、君は子供たちと一緒にレフィーンへ帰っていて欲しい」
「そんな……」
即答なんてできなかった。エドリックは単身ゼグウスへ、フローラは子供たちとレフィーンへ。いつ迎えに来てくれるかもわからない。そんなの耐えられない。
フローラはポロポロと涙を流し、エドリックの顔を見る。エドリックだって、それは苦渋の決断だったのだろう、今まで見た事の無い辛そうな顔をしていた。
「泣かないでフローラ、お腹の子に障る。大丈夫、離れていても私はいつでも君と子供たちの事を想ってる。愛してる」
「エドリック様……」
お腹の子に障るとわかっていても、涙は止まらない。何もできない自分が悔しかった。
自分にも何かできればエドリックの荷物にはならなくて済んだのに。魔術師になりたいと、そう思って幼い日に紋章を刻み研鑽を重ね、家を出て行ったエミリアの気持ちが……この時ばかりはフローラにもわかる気がした。
エドリックはフローラを抱き寄せる。何も言わずに、ただ背を撫でてくれた。フローラの涙がエドリックの胸を濡らす。涙は暫くの間、乾く事はなかった。
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