第1話
「結婚……? 私が、ですか?」
それは突然の話だった。レフィーン公国第四公女として生まれたフローラは、去年十八歳になった。成人はしているものの、婚約者がいた訳でもなければ縁談があった訳でもなく、レフィーン公が住む屋敷の離れで暮らしていた。
フローラを溺愛する父と優しい長兄は度々この離れに来るが、それ以外の兄弟や母親はこの離れに来ることはまずない。それは、母親と長兄以外の五人の兄姉に、フローラは嫌われているからだ。
だが、まずこの離れには来ないはずの次兄・ウィリアムが珍しく離れにやってきた。そして何を言うのかと思えば、一枚の肖像画を出してこう言ったのだ。
『レクト王国の貴族から縁談だ』と。
三人いる姉のうち、上の二人は既に嫁いでいる。順番から言えば、今回の縁談を受けるのは三女・リリアナであっただろう。しかし、この次兄ウィリアムはフローラを指名したのだ。
「向こうにとっては、レフィーンの公女であればリリアナだろうがお前だろうが変わらん。お前がいなくなってくれた方が、国のためだ」
「……お父様や、ルドルフ兄様はご存じなのですか?」
「あぁ、勿論。父上も兄上も、リリアナよりもお前を嫁がせるべきだとそう言った」
「……そう、ですか。その、この肖像画の方は……」
「お前もグランマージ伯の名は知っているだろう。この大陸に魔法を広めた、偉大なる魔術師だ。この青年は、その孫だそうだ。良かったなぁ、フローラ。この肖像画を見るに、中々の美男子だぞ。せいぜい愛想良くして、気に入られるんだな」
「ウィル兄様……!」
ウィリアムは肖像画を残し、フローラが名前を呼んだのも聞かずに背を向けその場を立ち去る。残されたフローラは、その肖像画を手に取った。
整った顔、切れ長だが優しそうな瞳……恐らく年齢はフローラとそう変わらない。魔術師・グランマージ伯の孫と言うからには、彼もきっと魔術師であるのだろう。知的で物静かそうな、そんな雰囲気がその肖像画から伝わってくる。
名前すら聞けなかった。だが、この肖像画の人物と自分は結婚することになると……そう言われても、フローラはまだ実感すら沸かない。
ウィリアムが言ったように、肖像画は美男子だっただろう。だが、この手の肖像画は実物よりも何割か美しく見えるように描かれる物であって、恐らくはこの肖像画もそうなのだろうと思った。
夫に求めるものは顔ではないと、フローラは肖像画を見ながら自分自身にそう言い聞かせるが……せめて生理的に無理だと、そう思ってしまうような外見でない事だけは願っても良いだろうと……その日はそんな事を考えていた。
フローラ・十八歳の冬。レクト貴族の嫁になれと言われ、国を出るまでたったの二十日間。準備は大忙しだった。
そもそも、フローラが母親や兄姉に邪魔者扱いされているのはその出生にあった。母……つまりは父の妻だが、フローラは彼女の子ではない。他の兄姉は全て正妻の子だが、フローラだけはそうではなかった。
フローラより三歳上の姉・三女のリリアナ。彼女が生まれた後、父と母は一時期離婚寸前と言うくらいに不仲だったそうだ。その時、父と懇意になった女がいた。それがフローラの母親だ。
母は身分も低く、本来であれば庶子であるフローラが公女の身分を貰う訳にはいかなかっただろう。庶子を公女にしなければならない程、レフィーンに子供がいない訳ではない。むしろ、六人も子供がいた。あえて愛人の子を公女とする必要はなかった。
だが、父は愛人が産んだ子・フローラを引き取り公女にする。なお、フローラの生母が今どこで何をしているかは……フローラは知らない。生きているのか死んでいるのか、それすらも知らない……レフィーンの中で、フローラの生母の話は禁句であったのだ。
ともあれ、本来であれば公女の身分ではないフローラを公女としたは良いが、それ故にフローラは父の妻には嫌われている。彼女の事を母と呼んではいるものの、この数年話した記憶すらもない。
兄姉も、皆母の味方だった。フローラを娘として可愛がってくれている父親と、父親の意思なのだからと言って唯一フローラを妹として認めてくれているのが長兄のルドルフである。
しかし、フローラがレフィーンにいる事で……両親や兄姉たちの関係が悪くなっている事も、また事実だろう。次兄・ウィリアムがそう言うように、フローラはレフィーンにはいない方が良いのだ。
「まだ見ぬ旦那様。あなたは一体どんなお方なのでしょうか」
勿論返事はない。だが、フローラは結婚相手の肖像画に語り掛ける。彼は、フローラを大切にしてくれるだろうか。家族として受け入れてくれるだろうかと……少し、その心配をした。
フローラが離れに住んでいるのも、母や兄姉達と顔を合わせないようにするため。物心ついた時にはこの離れに住んでいたから、それが当たり前だった。寂しくなんてない。だが、仲良さそうに談笑する兄姉たちの姿を、羨ましいと思った事は一度や二度ではない。
長兄のルドルフはフローラの事を可愛がってくれたが、距離は感じる。父は溺愛してくれていただろうが、それは愛を金に換えただけ。欲しいものは何でも与えてくれたが、本当に欲しかったものは……きっと家族の愛。金では、決して買う事は出来ない。
フローラは、決意する。グランマージ伯の孫……『ジルカ男爵』と言うと後で長兄・ルドルフから聞いたが……彼と結婚するのだから、自分は愛情いっぱいの家庭を作ろうと。
彼が欲しいのは『レフィーンの公女』であって、ただ家同士の繋がりだけが目的なのかもしれないが……それでも、彼の事を愛せばきっと彼もフローラの事を愛してくれる。
そう、願っていた。
結婚が決まってからたった二十日後、フローラは生まれ育ったレフィーン公国を後にする。父とルドルフとは抱き合って別れたが、母や他の兄姉は見送りにすら来なかった。自分が嫌われている事は知っていても見送りくらいはあると思っていただけに、それすらなかった事に逆に驚いてしまう。
馬車に乗り込み、レクトまでの道のりは長い。道中順調で五日ほどという事である。花嫁衣裳もまだ出来上がっておらず、フローラの乳母でもあった針子が同行し馬車の中でせっせと衣装を作っていたほどであった。
レクトに着けばきっとすぐに挙式が行われ、フローラは『ジルカ男爵夫人』となるのだろう。新しい生活は不安で仕方がないが、それと同時に知らない場所に行く楽しみと言う気持ちも持ち合わせていた。
何しろ、フローラはレフィーンを出るのが初めてだ。他の兄姉達は公務や旅行で国を出た事もあるが……フローラはいつも置いていかれた。あの離れから出た事も、あまりない。
庶子でありながら公女の身分を賜ったことで、フローラは籠の中の鳥だった。それが今は、ひと時の間自由を手に入れた……そんな気分だ。
馬車での五日間はとても長い道のりだったし、道中魔物が出て怖い思いもした。だが、無事にレクト王国の王都へ着いたと言われれば、その街並みに感動したものだ。
建物がレフィーンとは違う。気温も寒く、レフィーンではまず降らない雪が積もっている。馬車の窓から外の景色を見て、フローラは目を輝かせた。
そして、街並みを暫く眺めていれば……と、ある屋敷の前で馬車は止まった。それなりに立派な屋敷だが、フローラが住んでいた離れよりも少し大きいくらいだろう。ここがグランマージ伯爵の屋敷なのかと、少しばかり驚いたのも事実である。
「お嬢様、到着しました」
「はい、ただいま」
外から御者の声。フローラが返事をすると扉が明けられ……馬車を降りようとすると、一人の青年が立っていた。馬車から降りようとするフローラに、手を差し出してくれる。フローラは、その手を取るが……その青年の顔を見て『旦那様』の肖像画の面影を見つける。
「ようこそレクト王国へ、フローラ様。長旅は疲れたでしょう」
「はい……ありがとうございます。あの、あなたが『ジルカ男爵』様ですか?」
「えぇ、そうです。ですが、その呼び方では夫となる者に対して他人行儀過ぎる。どうか名前で『エドリック』と」
「エドリックさま……」
フローラは、夫となる男性の名を初めて知った。彼の手を取って、馬車を降り……冬のレクト王国は、とても寒かった。南国育ちのフローラは、こんなに寒いのは初めてである。
冬のレクトは寒いと聞いていて、暖かい外套も用意してもらってはいたのだが……それでも寒い。だが、馬車を降りるのに触れた彼の……エドリックの手がとても暖かかった。
「……レクト王国はとても寒いのですね。私、雪を初めて見ましたわ」
「冬ですから。でも、もう少しすれば暖かくもなってきます」
「でも、まだまだ寒い日は続くのでしょう?」
「えぇ。ですが、安心してください。屋敷の中は暖かいですから」
エドリックはそう言って、笑顔を見せる。彼の笑った顔は、子供のように無邪気で……胸が少しだけ、ドキンとした。
そもそも、肖像画よりも実物の方が何倍も整っている。あの肖像画を描いた画家は、きっと腕が悪かったのだろうとフローラはそう思った。すると、彼はフローラの思っている事がわかったのか、また微笑んで言う。
「あの肖像画は、実物よりも三割減で描いてくれと言ったんです」
「……え?」
「実物よりも三割増しで描かれて美男子だって期待されて、実物を見てガッカリされたら嫌だなって思って」
「そ、そうですか……」
それよりも、なぜフローラが肖像画の事を考えていたのがわかったのか……フローラは頭に疑問符を浮かべる。エドリックはフローラのその様子に微笑みを浮かべながら、フローラを屋敷の中へと連れて行ってくれた。
彼が先ほど言った通り、屋敷の中はととても暖かい。屋敷の中に入れば使用人の女性を紹介され、式の準備が始まる。
フローラはまず湯を浴び身を清め、それから最後まで馬車の中で調整されていた花嫁衣裳に袖を通す。そして再び馬車に乗せられ、城の敷地内にあると言う大聖堂へ。そこで、挙式となった。
エドリックとは先ほど会ったばかり。まだ彼の事も良く知らない。だが、教会の神父はそんな彼と永遠の愛を誓うかと問う。勿論誓うと言うが……隣に立つエドリックの姿をちらりと見て、神の御前でフローラの事を愛すると誓ったこの人は、本当に自分の事を愛してくれるのだろうかと……
最後に、神の前で夫婦となったことを誓う儀式。彼に抱き寄せられる。新郎となる男性が、新婦となる女性を守ると誓うための儀式だそうだ。いくら夫婦になるとは言っても、初対面の男性。抱きしめられることに抵抗がなかったとは言わない。
だが、フローラは知っている。夫婦になったからには、きっと今夜『初夜』を求められるのだろうと。どんな事をするのかも、なんのためにするのかも知っている。
だが、やはりそれは抵抗がある。しかし拒否権はない。それに比べれば、結婚するための『儀式』として抱き寄せられることくらいどうってことはないだろうと……
「さて、式も終わって私たちは晴れて夫婦となった。……フローラと、そう呼んでいいかい?」
「はい。お好きに呼んでください、旦那様」
「私も名前で呼んで欲しいと、さっき言ったよ。何だったら、エドと呼んでくれても構わない。私の幼馴染の『ブラハード侯』はそう呼んでくれる」
「い、いえ、そんな……。ではエドリック様と、そうお呼びしますわ」
「そうかい? わかった。……フローラ、これから夫婦として過ごすのに、約束してほしい事があるんだ」
「約束、ですか? どんな事でしょう?」
「私に嘘はつかないで欲しい。それが例え、どんな些細な事であっても」
「はい……」
エドリックはそう、真面目な顔で言った。フローラは、彼のその表情を前に思わず返事をしてしまう。鬼気迫る、までとは言わないが……彼のその表情に、何かを感じさせられる。
敢えてそう言うくらいなのだから、きっと彼は正直者なのだろう。どんな些細な嘘も許せない、そう言う性格なのだろうと。
だが、エドリックは更に続ける。それはフローラには、少しばかり衝撃的な話であり……恐らくは、次兄はこの事を知っていた。だからこそ、彼の結婚相手にはフローラをと言ってきたのだろう。
「君は聞いていなかったようだけれど、私は非凡な才を持って生まれていてね。人の心が読めるんだ」
「人の心、ですか?」
「あぁ。勿論、常日頃からむやみやたらに人の心を覗いているわけではないよ。だが、嘘には敏感でね……わかってしまうんだ」
「……あ、もしかして。私が馬車から降りた時の……」
「あぁ、それは先に謝っておく。初対面だし、君が何を考えているのか知りたくてね。少しばかり、何を考えているのか覗かせてもらった」
肖像画よりも実物の方が素敵だと、そう考えていた。それに対してエドリックは、肖像画は三割減で描いてくれと頼んだと言っていた。
なぜ肖像画の事がわかったのかと不思議に思っていたが、そう言う事だったのかと合点がいく。同時に、少しばかり恥ずかしいのも事実だ。
何を考えていたのか覗かれていたなんて、普通であればその事に嫌悪感を抱くだろう。だが、フローラはそれよりも……恥ずかしさの方が強かったのだ。
「君は変わってるね。だが、それで嫌われるなら仕方がないと思っていたけれど……君のような反応は初めてだ」
「あ、すみません……」
「何を謝るんだい? 嫌われなくて良かったよ。ともかくそう言う訳だからさ、私に嘘はつかないで欲しい。たとえそれが、私を安心させるためだとしてもね」
「……わかりました」
「エドリック様、よろしいですか。伯爵様も戻られましたので、ご挨拶に」
「あぁ、わかった。今行くよ」
フローラとエドリックが話していると、扉が叩かれ外から使用人の声が聞こえた。その声を聞き、エドリックは立ち上がる。フローラもエドリックが立ち上がったのを見て、立ち上がった。
「式の時に姿は見えていただろうけど、祖父に挨拶をしに行こう」
「祖父……グランマージ伯、ですね」
「あぁ、そうだ。少しばかり気難しい人だから、君はただ笑顔でいるだけでいいよ」
エドリックのその言葉に、フローラは身構える。そうして彼の後ろを着いてゆき、グランマージ伯のいる部屋へと向かった。
今日から我が家となる屋敷ではあるが、まだ『お客様』状態であるフローラは目線をキョロキョロとさせながらエドリックの後を追う。廊下に花が飾られていて、その花は見た事のない花だった。
「その花は、レフィーンにはないのかい?」
「え……? あ、はい……初めて、見ました」
「そうか。やはり土地によって咲いている花も違うんだね。その花は、この辺りではどこでも咲いているよ」
「そうなんですね。とても可愛らしいお花だと思って……」
「花が好き?」
「はい」
「では、花の図鑑でも取り寄せてもらおう」
「ですが……」
「遠慮することはない。見知らぬ土地に来て、まだ友人もいないんだから退屈だろうと思って。本でもあれば時間を潰せるだろう?」
「はい……」
「それに、私は本が好きなんだ。君に贈るけど、私にも見せて欲しい」
「わかりました。ありがとうございます、エドリック様」
「春になったら、それを持って森に行こうか。私の秘密の場所があるんだが、泉のほとりで季節ごとに違う花が咲く。綺麗な場所だよ」
「はい、楽しみにしております」
エドリックはそう、優しく言ってくれて……フローラの事を気遣ってくれているのが良くわかる。彼の些細な気遣いが嬉しくて、フローラも微笑んだ。
この人となら、上手くやっていけるかもしれないと……そう、感じる。この人はきっと、フローラの事を大切にしてくれると……彼の微笑む姿を見て思った。
「おじい様、失礼します」
「エドリックか、入れ」
彼の祖父、エルヴィス・グランマージ伯爵。フローラも、その名は知っている。『魔法』と言うものは本来神々や、今や絶滅したと言われるエルフと言う森の民が扱うものである。
それを、このエルヴィスと言う男は人間の世界に持ち込んだ。人間が『魔法』を扱う術を発見し、魔法文化を発展させたとそう言われている。
レフィーンにも僅かではあるが、彼の元で修行し魔術師となったと言う人間が存在していた。実際に、その『魔法』と言うものを見た事もある。何もないところから、手のひらから炎が発せられたのに驚いたものだ。
「先ほどは、良い式であった」
「ありがとうございます。おじい様、こちらが私の妻となったフローラです」
「うむ、よく我が家に来てくれた。エドリックも、よく結婚する気になったな。お前は今まで、結婚には興味がないと言っていたが」
「はい、少し気が変わりまして。とても素敵な女性を迎えられて、良かったと思っています。おじい様、彼女はレフィーンから到着して間もなく式を挙げ疲れている。早めに休ませてやりたいのですが」
「あぁ、そうすると良い。フローラよ、祖父の私が言うのも何だが、エドリックはよく出来た男だ。安心して過ごすと良い」
「……ありがとうございます、伯爵様」
「ではおじい様、これで失礼します。また夕食時に」
エドリックが一礼し、フローラもそれに習う。フローラを誘導するよう、エドリックの手がフローラの腰に添えられた。少し驚いたが、嫌悪感はない。まだ出会って間もなく、少し話しただけだが……彼の人柄がなんとなくわかっていたからかもしれない。
エドリックに誘導されながら、部屋を出る。かなり緊張したが、扉が閉まるのと同時にふーと息を吐いた。その様子を見て、エドリックが笑う。
「緊張したのかい?」
「はい」
「私が気難しい人だって言ったせいかな。大丈夫、祖父を纏う空気も良いものだった」
「空気……?」
「機嫌が悪い時なんかは、空気が重い。声を掛けるのも憚られるよ。私が結婚したことが、嬉しかったのかもね」
そう言いながら、エドリックと共に先ほどの……彼の部屋へ戻る。先ほどエドリックは本が好きだと言っていたが、改めて見ると本棚にはぎっしりと本が収納されていた。
だが、それよりもフローラは気になる事がある。ただの好奇心であるし、もしかしたらあまり触れてはいけない事なのかもしれないが……
「エドリック様、ひとつお聞きしても?」
「なんだい?」
「あの、伯爵様の左手の甲に何やら入れ墨のような……紋様がございました」
「あぁ、あれは紋章だよ。本当は、祖父に紋章は要らないんだけどね」
「紋章……?」
「人間が魔法を使うために必要なものだ」
そう言って、エドリックは棚から一冊の分厚い本を取り出す。その本を開くと、様々な模様と文字が書かれていた。パラパラと紙を捲り、机の上に広げてくれた。
「これが祖父の左手の甲に描かれているものと同じものだ」
「確かに、こんな形をしておりました」
「この紋様を……この魔法筆で人間の身体に記すと、この紋章が持つ魔法を使えるようになる。これは小さい炎を呼び出す紋章だよ」
「小さい炎……」
「そう。こんな風に」
言って、エドリックが人差し指を天に向ける。すると、その指先から小さな炎が現れた。フローラが驚いていれば、彼はすぐそばにあった……夜に照明として使うのだろう手燭の蝋燭に火を灯した。
「すごい……」
「そうかい? これは世の魔術師が最初に覚える、一番基礎の魔法だ。この紋章を身体に刻むことで、この魔法を使えるようになる」
「そう、なのですね……。ですが、先ほど伯爵には紋章はいらないと……」
「あぁ、それはね。実を言うと私の身体にも紋章はない。祖父はエルフから紋章を持たずとも魔法を扱える能力を授かっていて、その力は私も引き継いでいるようだ」
「では、なぜ伯爵の手の甲には紋章が?」
「祖父が若い頃、当時の陛下に魔法を披露する事になったそうでね。その時紋章を刻むと魔法が使えるようになると言う説明をするために、陛下の御前で刻んだそうだよ」
「そうなのですか」
「あぁ。それで陛下が魔法に感動して、一介の商人だった祖父を臣下として取り立てる事にしたそうだ。それで祖父は王女であった祖母と結婚し、伯爵となったんだって」
魔術師エルヴィス・グランマージ伯爵の名は知っていても、フローラはその出自を知らなかった。商人だった彼が国王の前で魔法を披露し、それで伯爵となったと言う話はこのレクト王国では有名な話だったらしいが……
ただの商人だった男が王女を妻に貰い、伯爵の称号を得るなど夢のような話だっただろう。
グランマージ家には王家の血が流れているという事は、レフィーンを出る前には聞かされていた。レフィーン公国も、元々はレクト王国の王族公爵が独立して作った国である。自分たちは家系図を何代か辿ればどこかでつながる、遠い親戚だ。
「レフィーンにも、魔術師がおりましたわ。伯爵の元で修業をしたと聞いております」
「大陸中の魔術師は、そのほとんどが祖父の弟子だよ。祖父の弟子が、更に弟子を取っているって事もあるとは思うけど。私も祖父の弟子の一人だ」
「エドリック様のお師匠様は、お父様ではなくおじい様なのですね」
「そうだね。父は忙しくてさ。私の幼い頃から父が魔術師団の団長をやっているから」
「私……魔術師団の団長は、伯爵なのかと思っておりました」
「祖父が団長だったのは、私が生まれる前の話だ。祖父は五十歳で魔術師団の団長を降りて、今は商売と魔法の研究に没頭しているよ」
「商売、ですか?」
「あぁ。祖父は元々商人だって言っただろう? 我が家は……例えば剣とか盾とか、外套とか……そう言うものを売っている」
「そうなのですね」
「私も祖父の弟子だから、一応商売人でもあってね。商売ってやつは中々楽しいよ」
エドリックはそう言って笑うと、また部屋の扉がコンコンと叩かれた。エドリックが返事をすると、キィと音を立てて扉が開く。
やってきたのは、一人の少女。エドリックと同じ青い髪、そしてエドリックにも似た気の強そうな顔。一目見て彼の妹だという事がわかった。
「どうした、エミリア」
「……お義姉様に、ご挨拶に来たの」
「そうか。フローラ、妹のエミリアだ」
「初めまして、エミリア様。フローラと申します」
「よろしくお願いします、お義姉様」
「エミリアは最近十五歳になったんだ。そうだ、エミリアは……珍しい『独学の魔術師』だよ」
「……エミリア様も、魔法を使えるのですか?」
「おじい様もお父様も、誰も教えてくれないから独学で学んでるのよ」
「私が教えてやると言ったら嫌がったじゃないか」
「兄様には教わりたくない」
エミリアはそう言うとプイと顔を背けるが、すぐにフローラの方を向き直した。そして近寄ってきたと思えば、フローラの手を握ってニコリと笑う。
「私、ずっと優しいお姉様が欲しかったの。だから、フローラ様のような可愛らしい方が義姉になってくれて嬉しいわ」
「そ、そうですか……? 仲良くしてくださいね、エミリア様」
「えぇ、今度お茶でもしましょう? ……じゃあ、私は部屋に戻るわ」
エミリアは挨拶を済ませると、自分の部屋へと戻る。彼女の部屋はエドリックの部屋の隣という事である。
彼女が部屋を出て行ったのを見送った後、思い出したようにエドリックは言った。
「そう言えば、君の部屋に案内するのを失念していたね」
「……私の部屋、ですか? そ、その……このお部屋ではないのですか?」
夫婦なのだから、フローラ個人の部屋はなくこのエドリックの部屋がフローラの部屋になるものだと思っていた。だが、フローラには部屋が与えられるらしい。
驚くフローラに対して、エドリックも驚いた顔をしている。なぜそんなに驚くのかと、そう言いたそうな顔をしていた。
「確かに、夫婦なんだから共に寝たって構わないんだろうけど……。君は、国を出る時君の父上から子供は早く作れとか、そう言う事を言われた?」
「は、はい。その……子供は早く産めと」
「我々は政略結婚だから、それは当然だよね。でも、私はすぐに君を抱くつもりはないよ」
「え? な、何故ですか? しょ、初夜……夜伽は」
「だって嫌だろう? 夫とはいえ、何も知らない男に抱かれるのは。私が君の立場だったら嫌だよ。君の嫌がる事はしない」
「そ、そんな事は……」
「嘘はつかない。先ほど約束したばかりだ」
先ほどエドリックは、フローラの事を変わっているとそう言ったが……フローラは、エドリックこそ変わった男性だと思った。
政略結婚、それは家と家とを結びつけるためのもので……その中で一番大切なものは、何よりも子供だ。子を成すためには、すべきことがある。
だがエドリックはすぐには『それ』をしないとハッキリと言った。そしてそれは、フローラが嫌がるだろうと言うのが理由なのである。こんな男性がいるのかと驚いた。
フローラは、嫁いだ以上彼の子を産むのが責務だと思っていた。しかし、それをわかっていてもそれを覚悟しながらレクト王国にやってきたと言っても、心と身体の準備ができていないのは事実である。
だが、子を成すためにはしなくてはいけない事だと……エドリックの問いに咄嗟に出た言葉は、嘘をついたつもりではなかったが嘘でしかなかった。
「も、申し訳ありません……」
「いいよ。君が私に抱かれてもいいと、そう思えるようになるまで手を出すつもりはないから安心して」
「で、ですがそれではエドリック様は」
「女遊びの心配をしてる? 私は潔癖でね、そんな事はしないから安心してくれ。男は女なら誰でも抱けるみたいな印象もあるかもしれないけど、私は抱きたいと思った人じゃなければ抱くつもりはないよ」
「わ、私の事は……」
「正直なところ、まだその気はない。君の気持ちを持つのと同時に、私がそう言う気持ちになるのを待つ期間でもあると言えばいいのかな」
「な、なるほど……」
「とりあえず、部屋に案内するよ。侍女もつけるから、困ったことがあったら彼女に何でも言ってくれればいい。もし何かあれば、私もすぐに駆け付ける」
「……ありがとうございます」
エドリックの先導で、フローラは部屋に案内される。と、言ってもフローラに用意された部屋は、エドリックの部屋のすぐ隣だった。寝台、机と椅子に化粧台に衣装棚……それと、フローラが国から持ってきた物も部屋に置いてあった。
フローラはその部屋に足を踏み入れる。今日からここが自分の部屋。レフィーン公家の離れに用意されていた部屋よりも少し狭いが、狭いからと言って困る事はない。
エドリックがフローラの部屋に足を踏み入れる事はなく、彼は彼で隣の部屋へ戻る。まだ明るい時間、そして侍女もいる中でもフローラの部屋に入らなかったのは彼が紳士だからなのか、それとも先ほど彼自身が言っていた通り潔癖だからなのか……
自分につけられた侍女が部屋にいる事に気づいて、フローラは彼女の方を見た。彼女はフローラにお辞儀をして、それから名前は『アン』だと言った。彼女はフローラよりも一回りくらい年上だろう、とても落ち着いている感じがした。
「早速ですが、アン。……エドリック様は、どのようなお方ですの?」
「そうですね……突然結婚すると言い出したものですから、私達も驚いております。何しろエドリック様は、他人に興味がないと言うか……人間が嫌いなんです」
「人間が、嫌い?」
「えぇ。フローラ様も、エドリック様の『能力(ちから)』の事は聞いておりますでしょう? 人間は、皆嘘をつく生き物です。自分の保身だったり、時には相手の事を想ってつく嘘もあるでしょうが……特に貴族の男性たちの間では、色々あるのだと思います」
「……確かに、貴族の男性の世界と言うのは、嘘偽りだらけなのでしょうね。皆家のために、出世のためにと嘘ばかり。偉い人間に嘘をついて媚びへつらって……」
「エドリック様は、そう言うのがお嫌いなんです。とても醜いでしょう」
「……そうですね。だから私にも、嘘をつくなとそう言ったんですね」
「例え嘘をついても、エドリック様は全てわかってしまう。でしたら、初めから嘘などつかぬ方が良いのでしょう」
「私、正直者として生きてきましたわ。ですが、嘘をついた事がないとは言いませんし、咄嗟に出てしまう事もあります。注意しないと……嫌われたくは、ありません」
「お気を付けくださいませ、フローラ様。エドリック様は冷徹なお方ですから……」
アンがそう言うが、フローラは首を傾げた。エドリックはフローラに対して、とても優しくしてくれたからだ。
長くグランマージ家に仕えているであろうアンから『冷徹な方』と、エドリックがそう評価されたことに驚いた。
「冷徹な方……ですか?」
「えぇ、それは。ご結婚されたばかりの奥様を脅すわけではありませんが……エドリック様は、過去も未来も見えるのです」
「過去も、未来も……?」
「未来に関しては、断片的な物ですが予知夢を見るとか。過去は全てわかるそうですよ。その能力を買われて、魔術師団に在籍しながら国家裁判の裁判官でもあります。先日も……フォルヴァ区と言う犯罪者のたまり場のような地区があるのですが、そこで捕らえた男を処刑台送りにしています」
「……罪状と刑は、どんな?」
「子供を攫って、他国の貴族に奴隷として売っていた男が絞首刑に。確かに犯した罪は酷い物ですが、反省の姿は見せていたのに……」
「……その反省の姿が、嘘とエドリック様は見抜かれたのでは?」
「そうかもしれませんね。ただ、私達には男の言う事が嘘か事実かわからないのと同時に……エドリック様が感じ取る『嘘』が本当に嘘なのか、エドリック様自身が嘘をついていないのかどうかなんて……誰にもわかりません」
確かに、と思った。エドリックが『それは嘘だ』とそう言って、だがそれがエドリックの嘘ではないと言う保証はどこにもない。人の気持ちなんて、何を考えているかなんてわかるはずがないのだから……
だが、エドリック自身は確かに人の気持ちを読めるのだろう。それは、フローラが自分自身の心を読まれた事でわかっている。今日、早速思っている事を言い当てられているのだ。とても偶然だとは思えない。
そして、嘘をつくなとフローラに言った以上、彼は嘘をつかないだろうと……そう、フローラは思いたい。私利私欲のための醜い嘘を嫌うと言う彼が、本当の事を嘘だと言うとは……彼自身が嘘をつくとは、どうしても思えなかった。
だからこそ、侍女・アンの発した『冷徹な人』が出来上がるのだ。感情を入れず、ただ感じた事実から答えを導く。合理的に生きてきた結果なのだろうと感じた。
「そうですね……。でも、本当に冷徹な方なのでしょうか。私には、とても優しくしてくださいました」
「今日お嫁に来たばかりの奥様に、冷たくするわけにはいかないとエドリック様もお思いになったんじゃないでしょうか。ですが、妹であるエミリア様にも嫌われていますし……エドリック様のご友人と呼べるような方も、ブラハード候レオン様だけです」
「そうなのですか……」
「ここだけの話ですが、私達使用人もエドリック様にはあまり近づきたくないと思っている人間が多いのです。いつ心や過去を読まれ、弱みを握られるともわかりません。あ、フローラ様……この事は、エドリック様には言わないでくださいね」
「……はい」
少し話しただけだが、エドリックはとても優しい人だと思った。だが彼は、どうやらかなり嫌われているようである。人の心が読めると、そう聞かされた後にフローラは『君は変わっているね』とそう言われた。それは、エドリックの能力は畏怖されるべき能力だからだ。
フローラは、体よくレフィーンを追い出された。母と兄姉たちに、嫌われていたから。だが本心では、愛されたいと願っていた。エドリックもきっと、同じように愛されたいと願っているかもしれないと……フローラは思う。
この結婚は、境遇こそ違うが嫌われ者同士の傷を舐めあう結婚だと……フローラは自嘲気味に笑う。妻となったからには、自分だけは彼を嫌いにはならないと、フローラはそう誓った。
フローラ、十八歳の冬。レフィーン公国の公女から、レクト王国貴族の妻となった。
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