第3話

第3話

不思議な足跡

 フローラがレクト王国貴族・グランマージ家のエドリックの元に嫁いで三日目の朝。今日もエドリックはフローラの部屋の前までフローラを迎えに来てくれて、朝の挨拶を交わせばそっと抱き寄せられる。
 少しだけ、慣れたとはいえまだ恥ずかしい……フローラは、顔を微かに赤くさせながらエドリックの胸に顔を寄せた。

「……君は良い匂いがするね」
「え? そ、そうですか?」
「香油? それとも香水?」
「きっと香油です。国を出る時に、持ってきたので……」
「そうか……同じ物は、きっとこちらでは手に入らない。お気に入りなら無くなる前に言うんだよ」
「大丈夫です、たくさん持ってきましたわ」
「それでもいつかは無くなるだろう? 取り寄せるから、無くなる前に言ってほしい」
「そんな、わざわざ……」
「肌に付ける物だし、合う合わないもあるだろう? それが気に入っているなら、同じ物を取り寄せた方が良い。君に合う、新しい物をこちらで探すのも大変だろうから」
「……ありがとうございます」

 そう言ったところで、フローラはエドリックの髪を結う。それから、エドリックはフローラを離した。フローラは、朝食へ向かうのにエドリックの左腕にそっと自分の右手を絡ませる。
 エドリックは優しく微笑んで、その微笑に少し胸が高鳴った。とても優しい、エドリックの事が好きだと……フロ-ラはそう思い始めている。
 人間嫌いの彼が自分へ優しくしてくれるのは、妻だから……それ以外に理由などないとわかっていても。その微笑みが自分へ向けられるのは、嬉しい。
 今はまだ、フローラの事を好きになって欲しいなんて……愛してほしいなんて言わない。ただその微笑みを向けてくれるだけでいい。名前を呼んでくれるだけでいい。
 毎朝毎晩の『約束』を、今後も果たしてくれればそれでいい……

「エドリック様、お食事中に申し訳ありません」

 二人が食卓に着いて、少し。エドリックはもうそろそろ食事が終わるところで使用人の一人がエドリックの元にやってきた。彼はこそっとエドリックに耳打ちすると、エドリックの瞳の色が変わる。
 何があったのだろうとフローラは首を傾げると、その姿を見てエドリックは言う。

「朝食を食べ終わったら、行かなければいけない用事が出来てしまった。昼前には戻るけど、それまではエミリアとお茶でもして過ごしてくれないかい?」
「え……? はい、わかりました」
「戻ってきたら、どこかへ出かけよう。どこか行きたい場所はある? 私も夕べどこが良いかと考えたんだけど、どこが良いか思い浮かばなくてさ」
「えっと……エドリック様がお戻りになるまでに考えておきますわ」
「あぁ、そうしてくれ」

 エドリックはそう言って食事の残りを口に放り込む。すぐに席を立とうとするから、フローラも立ち上がった。
 妻として、夫が外出するのであれば見送りをしなければいけないだろうと……だが、フローラの食器にはまだ食事が残っているのを見て、エドリックは椅子に座り直す。

「君の食事が終わるまで待つよ」
「……! も、申し訳ありません。気を遣わせてしまって……」
「良いんだ。私こそ気が利かなくてすまなかった。見送ってくれるつもりなのだろう?」
「……はい」

 エドリックは笑う。フローラは少し気恥ずかしいと思いながら、残りの食事を口に運ぶ。フローラの食事が無くなる頃には、使用人がエドリックの外套を手に持ってきてくれたところだった。
 フローラは使用人からその外套を受け取って、エドリックの後ろに立つ。エドリックはフローラが持った外套に袖を通し、玄関へと向かった。フローラもその後を追って玄関へ向かうが、外は寒いからと『見送りはここまででいい』と言われてしまう。

「行ってくる」
「はい、お気をつけて」

 使用人が扉を開け、エドリックは外へ。フローラは扉が閉まるまでその姿を見届けて……それからふぅとため息をついた。
 明日からは、エドリックは仕事で日中屋敷にはいない。レクトに来てからずっとエドリックと共に居て、明日から日中彼がいないのかと思うと少し不安だったのだが……彼が戻ってくるまでの間はその予行練習だと思えば良いだろう。
 そんなフローラの胸の内を察したのか、侍女のアンが声を掛けてくれた。

「フローラ様、エドリック様が戻られるまで如何いたしますか」
「エドリック様は、エミリア様とお茶でもと仰っていましたが……」
「では、外の景色が見えるお部屋へエミリア様をお招きしましょう。今は冬景色なので寂しいですが、我が家のお庭は雪が解けると色々なお花が咲いて綺麗なのですよ。朝食後ですから、お茶菓子は控えめで用意いたしますね」
「ありがとう、アン」

 そうして、フローラはエミリアを招いてお茶をすることになる。正直エミリアと何を話せば良いのかもまだわかっていなかったが、エミリアは喜んでと言って来てくれた。
 エミリアと二人で話すのは初めてで……昨夜、リンゴのパイを食べながら、エドリックにエミリアの事を少し聞いた。
 彼女はエドリックの事を嫌っているそうだが、その原因とは主に嫉妬らしい。エドリックにはできて自分にはできない事が多々ある事、魔術師として彼女はエドリックの足元にも及ばない事……それに、彼女の婚約者であるレオンとエドリックの仲が良い事も、彼女にとっては気に食わないのだろうと言うのがエドリックの見解である。

「お義姉様、お招きありがとう」
「いいえ。どうぞ、お掛けになって下さい」
「……ここにきて三日目だけれど、レクトはどうかしら?」
「まだよくわかりませんが……エドリック様がお優しくしてくださっていますから、何とかやって行けそうです」
「ふーん……」

 エドリックはもう、エミリアと仲良くするのを諦めていたような……そんな口ぶりだった。歩み寄れれば嬉しいが、それはもう難しいだろうと……
 だからフローラは、エミリアがエドリックに歩み寄ってくれないかと思う。折角二人だけの兄妹なのだ。仲良くした方が絶対に良いと、フローラはそう思う。

「エミリア様には、レオン様と言う婚約者がいると伺いましたわ。どのようなお方なんですの?」
「近々遊びに来くるはずだから、来たらお義姉様にも紹介するわ」
「ありがとうございます」
「レオンは騎士団に所属しているの。十五歳で騎士になって、今は大隊長よ。来月第二成人を迎えたら、副団長になる予定なの」
「まぁ、それは凄いですね」
「……兄様も、同じだけれどね」
「そうなのですか?」
「兄様から聞いてない? レオンと兄様は少し似ているのよ。エクスタード家は軍務大臣として騎士団長を勤めている権威ある家だから、新興貴族で『商人伯爵』なんて呼ばれているうちと、同列にはできないけれど」

 エミリアはそう言いながら、まだレクト王国の事が何もわからないフローラに説明してくれる。
 レオンとエドリックは生まれも数カ月差。レオンは将来のエクスタード公になるべく厳格に育てられ、エドリックもまた将来は伯爵となる身である。
 レオンは十歳前後の頃には既に大人顔負けの実力を持ち『闘神』と呼ばれ、エドリックはエドリックで天才的な魔術師として『神童』の異名を持つほどだった。
 互いに十五歳となってすぐ、将来の団長になるべき人材として騎士団と魔術師団に入団。現在の騎士団と魔術師団の団長はレオンの父とエドリックの父。二人は二十歳の第二成人を迎えると共に、副団長となる事が既に決定している。
 違うのは、レオンは国民的に人気が高く友人も多いが……エドリックは今や『死神』や『怪物』と言われ、レオン以外に友人と言える存在もおらず恐れられている事。
 共に天才的な二人の道を違えたものは、やはりエドリックの『人の過去が見える』『人の心の内を読める』と言う、その能力だっただろう。

「死神……ですか」
「……兄様が裁判官をやっているって話は聞いた?」
「はい、聞いております」
「兄様が担当しているのは、主に凶悪犯の事件なの。悪い奴には嘘つきが多いから」
「エドリック様の、人の過去や心を見る能力がその嘘を暴くのに役に立っているのですよね?」
「そうみたい。それに、そう言う凶悪犯は余罪がボロボロ出てくるのよ。兄様は人の過去も見えるから……余罪もひっくるめて、重罪になる事が多いの」
「そう、なのですね」
「兄様が担当した事件は、そのほとんどが極刑になる。それでついた異名が『死神』よ」
「……」
「悪い事をする奴が悪いんだから、極刑になるのは仕方がないと私は思うわ。でも、兄様はあれで結構真面目だから、それで今日も……」
「今日も?」
「……聞いてない? 兄様が出かけたのは、この間兄様が担当した事件の刑があるからよ。兄様は、担当した事件の刑は必ず見に行くの」
「それは、どうしてですか? 裁判官の仕事は、刑の内容を決めて刑を言い渡すところまでですよね?」
「……刑を言い渡した自分が、刑を与える訳ではない事はおかしいと……そう考えているのよ。処刑は確かに処刑人がするのが決まりだから……それなら刑を見届けるのは、言い渡した者の責任だって」

 フローラは、昨日のエドリックの言葉を思い出す。彼は『処刑は娯楽の一つ』だと、そう言った後にこう続けた。
『人間ってさ、自分は常に安全なところに居たいんだ。他人よりも優位な場所に居たい。見下されたくない。当然の感情だと思う』と……
 民衆はまさに『安全なところ』で見ているだけ。自分が刑を命じるでも、下すでもない。彼らに犯罪者に刑を下し、裁く勇気があるだろうか。
 裁判官達だって、極刑を言い渡すのは簡単かもしれないが……安全な場所で、その先の処刑に目を向けているのだろうか。
 処刑人は、どのような想いで刑を執行するのか。
 そんな事、フローラは考えた事もなかった。だがエドリックは違う。犯罪者の罪と向き合って、刑を命じ、刑が下るその瞬間まで目を逸らさずにいる。
 彼が担当した事件はそのほとんどが極刑になると、だから『死神』だなんて呼ばれるようになったとの事だが……彼のその責任感は、妻としてはむしろ誇るべきだとそう思った。
 フローラはエドリックの気持ちを思うと、なんだか胸が痛い。一度視線を下に落としてから、顔を上げたその時だった。

「……?」
「お義姉、どうかした?」
「いいえ、何も……」

 窓の外に、人影が見えた気がした。だが、それは一瞬の事。大きな木が一本生えているが、その陰に誰かがいたような気がする。
 エミリアも後ろを振り返って、それから言った。

「あの木は、魔力の大樹よ」
「魔力の大樹?」
「えぇ。私達魔術師は、魔力の大樹から発せられる魔力を糧に魔法を使う。おじい様が昔……グラムの森からその枝を貰って植樹した物らしいわ。あそこに植えて随分経つから結構大きな木になったけれど、もっともっと大きな木になるんですって。でも、まだ大樹と呼べるほどの大きさではないから、魔力の樹かしらね」
「グラムの森、と言うのは?」
「我が家の領地なのだけれど、この王都より西に何時間か馬を走らせた場所にあるのよ。兄様が帰ってきたら、地図を見せてもらうと良いわ」
「我が家の、領地……」
「きっと、お義姉様が想像しているような場所じゃないわ。我が家の領地は本当に森だけなの。人間は住んでいない」
「そ、そうなのですか」
「えぇ、伯爵家の領地にしては小さすぎる土地。でも、おじい様はどうしてもあの森が欲しかった……」
「それは、なぜですか?」
「あの森には、エルフが住んでいるんですって。おじい様が若い頃、エルフ達と交流があったらしいの。森を守るために、伯爵となった時にあの森を頂いたんだって言っていたわ」
「そうなのですね……」

 なんだか素敵な話だと、フローラはそう思った。思った時には、木陰に人影が見えたような気がした事などすっかり忘れてしまっていた……と、言うよりきっと自分の勘違いだろうと、そう思う事にした。
 だが、エルフが住む森がまだ大陸に残っていると言う話は信じがたい話でもある。エルフと言うのは当の昔に絶滅したと言われていて、その存在はすでに都市伝説のようなもの。
 エルフを見つけ捕らえる事が出来れば、いくらでも金を出すなんて言う金持ちだっているくらいである。

「ですが、エルフなんて本当にいるのでしょうか?」
「私は一応、信じてるわ。じゃなければ、おじい様がどうやって魔法技術を手に入れたのか……その説明がつかないもの」
「そうですね……」
「……兄様も言ってたわ、エルフは今もグラムの森に住んでるって」
「エドリック様がですか?」
「お義姉様、兄様はね……人の心を読めたり、過去を見れるだけじゃない。予知夢を見るの」
「予知夢……」
「グラムの森に行って、エルフに大樹の元まで案内されるっていう夢を……随分昔だけど、兄様は見ているの。だから、エルフはいるのよ」
「そうなのですか……」
「兄様のように……過去や未来が見えるって、どんな気分なのかしらね」

 エミリアはそう言いながらお茶菓子を摘まむ。彼女の表情は……何もかもできてしまう兄への羨望と嫉妬が、見え隠れしているように見えた。

 エミリアとのお茶は、彼女は今日この後家庭教師が来ると言って小一時間程度でお開きとなった。どうやら、母親……フローラにとっては義母のイザベラが、エミリアを淑女にするためあれやこれやと学ばせているらしい。だが、その事をエドリックはもう無駄だと言って笑っていたが。
 フローラは少しばかり退屈で、広間の窓から庭を眺める。昨晩降った雪が白く積もっていて、まだ誰も踏み入れていない、足跡のついていないその雪に一番に足をつけたいとそわそわとしていた。

「ねぇ、アン。あの雪の上を歩いてみても良いかしら?」
「良いですが、滑って転ばないでくださいませね。フローラ様は、まだ雪に慣れておられませんから……」
「えぇ、ゆっくり歩きますわ」

 エドリックがあとどれくらいで戻ってくるかはわからないが、フローラが雪で遊んでいる間にはまだ戻らないだろうと思う。外套を着て、大窓を開けてもらい一歩庭へと足を踏み出した。
 もう踏み固められた雪の上とは違う感覚に、フローラはワクワクとしながら一歩一歩と足跡を付けていく。初めての玩具を目にした子供のように、その瞳はキラキラと輝いていた事だろう。

「まぁ、先客の足跡がありますわ」

 何歩か進んだところで、可愛らしい足跡を見つけた。恐らくは野良猫だろう、小さな足跡が点々と続いていてフローラは頬を緩めながら……先ほどエミリアに教えてもらった、まだ大樹とは呼べない『魔力の樹』のあたりまで行こうと一歩また一歩と足を進める。
 魔力の樹に近づいたところで、フローラはもう一つ先客の足跡を見つけた。それは、明らかに人間の靴の跡。魔力の樹の下から、通りに続く方へと向かって足跡が残っていた。

「足跡……この樹へ向かってきた跡はありませんのに、樹から離れる足跡だけが残っていますわ……」

 それは不思議な光景だった。足跡の主はまるでどこかからこの大樹の下へ現れて、そして通りへ向かって去っている。夕べ雪が降っていて早朝に止んだと言うから、雪が降る前からこの場に居て雪が積もってから去らなければこのような足跡にはならないだろう。
 夜中、ずっとこの場に誰かがいたのだろうかと思えば怖くて……エドリックが戻ったら、彼にもこの事を伝えようとフローラは思った。
 念のため……その足跡を追えば通りに出るのかを確認しようと思い、フローラは足跡の方へ向かってみる。ゆっくりと歩いてゆけば、思った通り屋敷の玄関側へと続いていた。
 そちら側は使用人や馬の足跡で、もう足跡を追う事は出来なかったのだが……グランマージ家の門のところまで出て、通りをキョロキョロと見渡してみればアンが後ろから話しかけてきた。

「フローラ様、どうかなさいましたか?」
「いいえ……少し気になる事があっただけですの。エドリック様が戻られましたら、エドリック様にお話ししますわ」
「そうですか……さあ、もう雪は満足されましたか? 寒いので、お屋敷の中に戻りましょう」
「まだ雪に触っていませんの。最後に、ふわふわの雪を触ってからでよろしくて?」
「ふふ、フローラ様。まるで子供のようですね」
「私の生まれ育ったレフィーンでは、雪は降りません。だから、楽しいんです」

 アンにそう言って、フローラは門の上にうっすらと積もっていた雪に触れてみた。ひんやりとしていて、軽くて……手のひらの上に乗せてみれば、すっと溶けて水になる。

「エドリック様のお心も、雪のように解けてくださればいいのに……」

 その溶けた雪を見て、フローラはぽつりと呟く。
 エドリックは、フローラに随分と歩み寄ろうとしてくれているだろう。だが、彼の頑なな心はまだまだ遠く冷たい。彼自身は暖かい人だろうが、その心は触れると氷のようにひんやりとしていて冷たくて……自分と本当の夫婦になるまでにはまだまだ時間がかかるだろうと、そう思わせる。

「フローラ様、もう雪も触りましたしお部屋に戻りましょう。貴女に風邪でも引かせてしまったら、私がエドリック様に怒られてしまいます」
「……そうですね、アン。戻りましょうか」

 フローラはアンに先導され部屋へ戻るが……自室へ入る前に、エドリックの部屋に寄った。エドリックからは好きに入って構わないと言われている事もあり、彼の本棚から本を借りようと思ったのだ。
 エドリックの部屋の本棚には、難しそうな本がずらりと並んでいた。だが、よくよく見てみれば難しそうな本ばかりではなく、小説や随筆など少し手軽に読めそうなものもある。

「どれをお借りしましょう……。エドリック様は几帳面ですわね、本の種類ごとに棚を分けていらっしゃるわ。この辺りが小説かしら……」

 フローラは小説が並んだ辺りを吟味して、その中で目についた小説を一冊取った。本の題名は『花嵐』と、そう書いてあった。
 それから、エドリックが戻ってくるまでその本を読んでいたのだが……その本は架空の大陸を舞台に、若い男女の恋模様を描いた作品のようだった。まだ序盤しか読めていないが、主人公である不器用な青年がなんだかエドリックに似ているような気がする。

「フローラ様、エドリック様がお戻りに」
「はい、今行きますわ」

 フローラは栞を挟んで机の上に本を置くと、エドリックを出迎えるため玄関の方へ向かう。フローラが玄関に着いた時、ちょうどエドリックが屋敷の中に戻ってきたところだった。
 彼は処刑を見に行っていたと……エミリアから聞いた。ずっと寒空の下に居たのだろう、顔が冷えて少し赤くなっているように見えた。

「エドリック様、おかえりなさいませ」
「あぁ、ただいま。ごめんね、一人にさせて」
「……いいえ。ずっと外にいらっしゃったのですか? お身体が冷え切っていますでしょう。すぐに何か暖かいものを用意して頂いた方が……」

 フローラが最後まで言う前に、エドリックはフローラの前に立ってフローラを抱き寄せる。突然の事で、驚いて固まってしまった。

「エドリック様……?」
「少しだけ、こうさせて欲しい」
「……はい」

 エドリックが他人の気持ちを過敏に感じ取る様に、フローラもエドリックの気持ちがわかれば良いのにと……そう思った。
 今、彼はどんな気持ちなのだろうか。フローラを抱きしめるエドリックが、少しばかり震えているような……さらに強く抱きしめられればそんな気がして、フローラもエドリックの背を抱きしめ返す。

「……どうかされたのですか?」
「いや……何もなかったと言えば何もなかったのだけれど、何と言って良いかわからない」
「そうですか……」
「だが、君がいてくれてよかった」
「……エドリック様」
「フローラ、約束通り君の行きたいところへ連れて行くよ。紅茶だけ一杯、飲ませてくれるかい?」
「はい、エドリック様」
「誰か、暖かい紅茶を淹れてくれないか。私の部屋に持ってきてくれ」

 エドリックはフローラから離れ、少しばかり作ったような笑顔を見せてからそう言った。外套を脱げば出迎えた使用人に渡し、自分の部屋へ向かおうとする。
 フローラは彼のその腕に、自分の腕を絡める。エドリックは少しばかり驚いた顔をして、それから微笑んでくれた。

「……お部屋にご一緒してもよろしいですか?」
「あぁ、もちろん」

 そして、彼はフローラの頭を撫でる……それはなんだかくすぐったい。愛しいと、彼がフローラの事をそう思ってくれていれば、一体どれだけ嬉しいか。

「もう、私は子供じゃございませんのよ」
「妻の頭を撫でてはいけないかい?」
「いいえ、そんな事はございませんけれど……」
「ではいいじゃないか」
「……はい」

 フローラが少し拗ねて言えば、エドリックは笑う。真面目で責任感が強く、優しくて……でも、少しばかり他人と違う能力を持って生まれたばかりに、忌み嫌われている旦那様。
 彼のその淡い緑の瞳には、今一体何が見えているのか……フローラは、彼と同じようにまっすぐに前を見ていたのだが、部屋に着く前にエドリックはフローラに問いかけた。

「……私に何か言いたい事がある?」
「あ……そう言えば、不思議なことがありましたの。お庭にある魔力の樹の辺りに、不思議な足跡が……」
「不思議な足跡?」
「えぇ、樹の元まで行った足跡はないのに、樹の元から通りの方へ向かう足跡だけが残っていたんです」
「……それは確かに、不思議だね」

 ちょうど三階にあるエドリックの部屋について、エドリックは部屋に入ると真っ先に窓の方まで向かった。部屋の窓はちょうど庭の方へ面していて、魔力の樹も見ることができた。

「本当だ。……下の大窓から樹に向かっている足跡は?」
「あれは、私とアンですわ。私、まだ誰も足をつけていない新雪の上を歩きたかったんです……」
「はは。さっき君は子供じゃないと言ったが、子供のようじゃないか」
「……は、初めての雪が珍しかっただけですの」

 エドリックが笑うから、フローラはなんだか恥ずかしい。だが三階の部屋から見ると、先ほどの不思議な足跡はやはり不思議だ。よくよく見れば、フローラやアンの足跡よりも大きい。男性の足跡だと、そう気づくのに時間はかからなかった。

「……昨夜、日付が変わる頃から雪が降っていたようだよ。止んだのは明け方だ。と、なるとあの足跡は……昨夜雪が降る前に樹の下まできて、明け方までずっとあそこにいたという事なのかな」
「だとしたら、とても怖いです。一体誰が、何の目的で……」
「でも、庭から通りへ向かうには屋敷の横を通る必要がある。あの道は馬小屋もあるし、夜に誰かが通れば馬番が気づきそうだけどな」
「……と、いう事は……」
「不思議だね。私は人の過去は見えるけど……その場所で過去に何があったのかを見る事はできない。私の見る過去と言うのは、その人の記憶を辿っているだけだから」
「そう、ですか」
「でも、心配しなくていい。我が家の窓には、外から誰かが触れたら雷に打たれたように身体が痺れる魔法がかけてある。夜間にこっそり忍び込もうとする物盗り対策だけどね」
「そうですか、でも安心いたしました」
「よかった。これからも、何か気になる事があったら遠慮なく言ってくれ」
「はい、エドリック様」

 それから、エドリックの部屋に紅茶が二人分届く。使用人が気を利かせてフローラの分も淹れてくれたのだろう。フローラは彼にお礼を言って、エドリックは紅茶を机の上に置かせると使用人を下がらせた。

「私がいない間何をしていたんだい?」
「エミリア様とお茶をして、それから……エドリック様の本棚から、小説を一冊お借りしましたわ」
「小説? どの本だい?」
「えぇと……『花嵐』と、書いてありました。まだ序盤しか読めていませんが……」
「花嵐か、あれは中々面白い話だよ。まだ序盤か……後半は少し考えさせられたりもしてね。読み終わったら、ぜひ感想を聞かせて欲しい」
「えぇ、もちろんです。私が読み終わったら、次に読む本をエドリック様が選んでくれませんか?」
「良いよ、どんな本が良い? 花嵐のように、男女の恋愛の話?」
「はい、素敵な恋のお話なんて憧れてしまいますわ……」
「……では、何冊か見繕っておくよ」
「ありがとうございます」

 素敵な男女の恋の話に憧れると、うっとりとするフローラを見てエドリックは少し不機嫌そうな顔をしたが……フローラにはその表情は見えていなかった。
 貴族に生まれれば、親が結婚相手を決めることが当たり前のこの時代……男女の恋愛なんてものは、フローラには小説の中の話でしかない。恋愛結婚は、庶民のするもの。
 恋愛なんて神の教えに背く低俗なものだと貴族達は言うが……小説の題材にもなるほどの物なのだから、憧れる女性たちは多いだろうと思っている。
 フローラも、燃え上がるような恋愛をしてみたいと思っていた。だが、そんな機会もなくエドリックに嫁いだ。嫁いで三日目、今ではエドリックと燃える様な恋がしたいとそう思っている。
 好きだと、愛してるとそう囁き合う関係がどれだけ美しく憧れるものなのか……エドリックはわかってくれるだろうか? もしも、今後夫婦関係を続けていく中で、互いに想い合って愛し合える夫婦になる事ができたなら、どれだけ嬉しいか。

「……そう言えば、エミリア様からグランマージ家の領地の話を聞きました」
「あぁ、グラムの森の事かい?」
「えぇ、どの辺りにあるのですか?」

 フローラが訪ねれば、エドリックは一度立ち上がって本棚から本を一冊取り出した。どうやら、大陸の地図のようだ。フローラの隣に立ち、その本を机の上に置いて何枚かペラペラと捲る。
 ウルフウェンド大陸の全体が描かれていて、それはフローラも当然知っている。エドリックは、その中心のあたりを指さした。

「私達の住んでいる、レクト王国がここだね」
「えぇ、そうですね」
「この全体図ではわかりにくいかな。もう少し後ろに、拡大図が……あぁ、ここがいいかな」

 さらに数枚、エドリックが紙を捲る。そして、もう一度……王都の場所を指さした。そして、その指を西側……左の方へすっと動かす。

「馬車だと……西に五、六時間くらいかな。この辺りの森一帯が、グラムの森と言って我が屋の領地なんだ」
「エルフが住み続ける森だと、エミリア様は仰っていましたわ」
「あぁ、そうらしいね。私も行ったことがないから、見た事はないけれど……いつかグラムの森へ行く用事ができるようでさ、その時にエルフとは会える」
「予知夢……ですね」
「あぁ。しかし、グラムの森に何の用があるんだろう。今はまだ、見当もつかない」

 エドリックはそう言いながら地図を閉じ、本棚の元の場所へとしまう。それからフローラの方を向き直して、言った。

「さて、君をどこかへ連れて行くと約束していたけれど……どこへ行きたいかは決まっているかい?」
「……私、出かけるよりもあなたとこうしてお話をしていたいのですが……だめですか?」

 そう言えば、エドリックは少し驚いた表情を見せる。だが、すぐに優しく笑って、元居た席に戻って言った。

「だめじゃないよ。だが、私と話して楽しいかな」
「あなたの事を、もっとよく知りたいんです」
「……そうか。そう言ってくれるのは、嬉しいけれど……今まで私の事をよく知りたいなんて言う人はいなかったから、なんだか不思議だ」
「ふふ、色々教えてくださいませ」
「いいよ、何でも聞いて」
「そうですわね、では……」

 フローラは、エドリックにあれこれと質問をする。エドリックはすぐに答えを出してくれることも、少し迷いながら返事をすることもあったがフローラの質問を、濁す事はなく全て答えてくれた。
 反対に、エドリックからもフローラへ質問が来る。その気になれば、彼はフローラに聞かずともその答えは知ることができるはずだ。だが、そうはせずに質問を投げかけてくれる事が……フローラには、嬉しい事だった。
 結婚して、三日目。不思議な事もあったが、エドリックの事を色々と知る事ができて良い日だったと、フローラはそう思いながらその日を終えたのだった。

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