第5話
「お父様が……?」
それは、突然の訃報だった。レフィーンからやってきた使いが、フローラの父・レフィーン大公が亡くなったと言う報せを遠路はるばるレクトまで届けに来たのである。
フローラがレクトに嫁いでから、ちょうど四カ月。父は兄らと共に遠乗りに出た際に落馬し、打ち所が悪く亡くなったとの事だった。
既に大公の死より十日ほどが経過しており、葬儀も終わっているであろうが……それでもフローラはレフィーンへ行って父の墓前に花を添え、祈りを捧げたいとそう思ったのは当然だっただろう。
しかし、フローラはもうレフィーン公女ではない。今はレクト貴族、グランマージ家の嫁。いくら父親が亡くなったからと言って、レフィーンに帰る事が許されるのかと……帰りたいと言って、帰らせてくれるのだろうかと……
そう思いながらエドリックの帰りを待つが、エドリックはいつもよりも何時間も早く屋敷に戻ってきた。
「エドリック様、おかえりなさいませ。今日は随分とお早いのですね」
「ただいまフローラ。……フローラ、明日の朝からレフィーンへ向かうよ。だから準備をして欲しい」
「え? エドリック様……」
「どうして知ってるんだって顔をしているね。他国とは言え元首が亡くなったんだ、当然陛下の元へも使者が来ている。それに、私はレクト一の情報通だよ。城に届くあらゆる情報は私の耳にも入ってくる。……君の父上の事は、残念だ。私もいつか挨拶に行こうと考えていたのだが」
「エドリック様……」
エドリックはフローラが父の墓前へ行きたいと、そう言う事を予想していたのだろう。そして、レフィーンへ連れて行ってくれると言うのだ。彼の優しさに、思わず胸が熱くなる。
フローラは侍女のアンに言ってすぐにレフィーンへと向かう準備を始めた。そして翌朝、エドリックと共に馬車に乗り込み一路レフィーンへと出発する。
まさか結婚してたったの四カ月でレフィーンに戻るなんて、そしてそれが父の弔いのための帰郷になるなんて……フローラは思ってもみない。
レクトからレフィーンへと向かう五日間は、馬車の中でエドリックがずっとフローラの隣で手を握ってくれていた。
エドリックに嫁ぐためレクトへ向かった時は、不安ばかりが胸を占めていた。新しい生活への期待も勿論あったが、顔も名前も知らない男性が夫になるのだから……
国を出る前に花嫁衣裳は完成しなかったから、針子が馬車に同乗して道中で仕上げた。フローラはその事を懐かしく思いながら、だが父親の死がまだ信じられず胸が苦しい。
「エドリック様、申し訳ございませんがお力添えいただけますか」
御者がそう言って馬車の扉を開けたのは、レフィーンの城下町へ入る少し前の事だった。どうやら、魔物の群れが道を塞いでいるらしい。
当然、この道中にも何度も魔物が出て馬車は止まった。しかし、エドリックが外に出るまでもなく護衛の兵が倒していたようだと言うのもフローラはわかっている。エドリックに協力を求めるほどとは、どれほどの魔物がいると言うのか……
「君達だけで対処は難しいのかい?」
「……はい、申し訳ございませんが」
「ギザードルの群れか。確かに、私が出た方が早いか」
御者は何も言わなかったが、エドリックは魔物の名前と群れだと言い当てた。フローラには何も言っていなかったが、恐らくは使い魔を馬車の外に出していたのだろう。
『わかったよ』と言いながら、フローラの手を握っていた左手をすっとあげて、フローラの手の甲にそっと口づける。
「ごめんねフローラ、少し出てくるよ。すぐ戻ってくるから」
「エドリック様……」
「そんなに不安そうな顔をしないで。ギザードルは結構強い魔物だけど、心配しなくていい」
結構強い魔物と、エドリックの口から出た言葉にフローラは眉を下げた。エドリックは心配しなくていいと言ったが、心配しない訳がない。
もしもエドリックに何かあったとすれば、どうすればいいのか。素直に『わかりました』とは言えそうにない。
「でも」
「大丈夫、すぐ片付ける」
エドリックはそう言って、フローラから手を離す。馬車を降り扉を閉め、フローラはそんなエドリックを見ようと窓から外を眺めた。
魔物の姿はフローラの場所からはよく見えないが、扉が開いた時には護衛の兵が戦っている声も聞こえていた。すぐそこに、狂暴な魔物がいるのだと思えば身体が震えてくる。
本当は、エドリックに手を握っていて欲しいが……エドリックは外に出てしまった。震える身体を抱きしめるようにすれば、馬車に同乗していたアンがフローラの肩にそっと手を添えてくれた。
「フローラ様、ご不安な気持ちはわかりますがエドリック様を信じましょう」
「ええ……そうね、アン。ありがとう」
言いながら、フローラは窓の外のエドリックの後ろ姿をじっと眺める……彼の両手から、燃え盛る炎が現れていた。
(魔法……。私そう言えば、エドリック様が戦うために魔法を使う所を見た事がありませんわ)
初めて会った、彼に嫁いだその日。小さな火を指先から起こしたところは見ている。使い魔と呼ばれる魔力の塊で、どんなものでも顕現してしまうのも知っている。近隣の村が魔物に襲われ、助けに行くために出動したと言う日もあった。
だが、戦う姿は……それを見るのは、フローラは初めての事だった。
エドリックは魔術師としての才能もずば抜けており、幼い頃は神童と呼ばれもてはやされていたと言うような話もエミリアから聞いた事がある。心配する必要はきっとのないだろうと……それも、わかってはいるのだが。
「……魔物とは、一体何なのでしょうね」
「わかりません。ですが、私達人間の敵には違いないのでしょう」
「エドリック様……」
その後、エドリックはすぐに馬車に戻ってきた。まるで何もなかったかのような、いつも通りの涼しい顔で……
「だから言っただろう? すぐに戻ってくるって」
「はい。……あの、エドリック様。とても、格好良かったです」
「……そうかい? ありがとう」
エドリックは少し驚いた顔をした後、照れくさそうに笑いながらフローラの隣に座り直した。
そしてまた、フローラの手を優しく握ってくれる。この手から、どうやってあの燃え盛る炎が発せられたのか……不思議ではあるのだが、彼の手が熱くなっているとかそう言う事もないようだ。
動き出した馬車の窓から外を見れば、大きな魔物だったと思われる……たくさんの黒く焦げた塊からまだ煙が立ち上っている。フローラの位置からは見えなかったが、エドリックの魔法がいかに強力だったのかを物語っているようだ。
そして、馬車が再び走り出せばすぐにレフィーン公国の首都・プラティスの城壁が見えてくる。だが、フローラにとってはこの城壁は見慣れたものではない。城下の街並みだって、常日頃から見ていたものではない。
プラティスに入ったと言われても、懐かしさを感じるものではなかった。やっと懐かしさを感じたのは、大公の屋敷のその敷地内に入ってから。フローラが幼少より過ごしていた、あの離れが見えた。
「フローラ、久しぶりだな」
「ルドルフ兄様……。お父様の訃報を聞き、戻ってまいりました。本当は、もっと別の機会にとそう思っていましたが……」
「それはそうだろう。……貴公がエドリック卿か。私がフローラの兄……長兄のルドルフだ」
「はじめてお目にかかります、ルドルフ大公。いえ、義兄上(あにうえ)とお呼びした方が良いのか……。エドリック・グランマージと申します」
「はは、義兄(あに)とそう呼んでくれて構わんよ」
そう言って、ルドルフとエドリックは互いに右手を差し出しがっちりと握手をする……それは、とても自然な光景であった。
「早速ですが、義兄上。義父上の墓所に……」
「……なんだ、誰かと思えばフローラか。お前は嫁いだ身だ、何をしに帰ってきた。まさか、もう飽きられたのか?」
「ウィル兄様……」
「ウィリアム、フローラは父の弔いに戻ってきただけだ。……エドリック卿、失礼したな。これは弟の……次兄の、ウィリアムだ」
「ほう、旦那も一緒か。貴公が、噂のグランマージ家ジルカ男爵……私は一応、フローラの兄のウィリアムだ」
「初めまして、ウィリアム公子。エドリックです」
先ほどルドルフとそうしたように、エドリックは右手をウィリアムに差し出す。ウィリアムは少し怪訝そうな顔をしたが、一応は客人であるエドリックとの握手を断るような事はしなかった。
「……フローラ、エドリック卿。聖廟へ案内しよう。こちらへ」
長兄・ルドルフがそう言って後ろを振り返って足を進める。エドリックがフローラの手を握って、ルドルフの後へ続いた。
ウィリアムの視線が痛く、思わず身体が震えてしまいそうだったが……エドリックが手を握ってくれていたおかげで、心はとても落ち着いていた。
父の墓まで案内され、フローラは涙を流し安らかな眠りを祈る。エドリックが肩を抱いてくれていた。彼と共に墓前に花を添え、父の死を共に弔い……聖廟を出る頃、時間はもう夕方だった。
「まさか墓参りだけで帰るつもりはなかろう? 二、三日ゆっくりしていくと良い」
「ありがとうございます、義兄上」
「部屋を用意させよう。従者は男女それぞれ何人連れてきている?」
「男性が七名、女性は二名です」
「では男性二部屋、女性一部屋で良いか?」
「えぇ、ありがとうございます」
「お前たちは、一部屋で良いだろう?」
それは、ルドルフとしては当然の質問だっただろう。夫婦なのだから一部屋で良いだろうと……まさか結婚から四カ月たって、共に寝ていない訳がないだろうと。
エドリックが面食らって『いや……』と言うのを、フローラがその言葉の上から声を被せた。
「構いませんわ」
「フローラ、でも」
「構いませんわよね、エドリック様」
「……あぁ」
フローラがエドリックの顔を見て言えば、エドリックもそれ以上否定しようとはしなかった。内心では、フローラの心臓はバクバクといつもよりも早い。嫌だと、彼がそう言ったらどうしようと……
最近では二人の距離が近づいてきていると言う自負もある。だが、それでも否定されるかもしれないと思うと怖かったのだ。
そうして、フローラがかつて住んでいた離れの一室に通された。今、この離れに主はおらずもっぱら来客用として使われているとのことである。だが、使用人はフローラがいた時と変わらぬまま。懐かしい顔ぶれに会えたことが、フローラは嬉しかった。
「フローラ、本当に良かったのかい?」
「えぇ、勿論。エドリック様はお嫌ですか?」
「そうではないけれど……まだ国でも部屋を分けたままだと言うのに、突然同室なんてと思っただけだよ」
「別の部屋を用意してほしいと言えば、ルドルフ兄様に夫婦関係が上手く行っていないと誤解されそうだと思いまして……」
「確かに、それはそうだね」
そう言いながら大きな長椅子に腰かけるエドリックの、その隣にフローラも腰かける。エドリックは少し困った顔をしていた。やはり本当は同室は嫌だったのかと、その表情にフローラは不安を覚えるが……それを察したのか、エドリックの手がフローラの肩を抱いてふいに抱き寄せられた。
「良いのかい、フローラ? 一緒に寝たら、私が狼になってしまうかも」
「……構いませんわ、エドリック様」
「それは反則だ」
「何が、ですか?」
「こちらの話だ」
そう言って、エドリックは空いた手を額に当てる。何が反則なのかと聞いても、うやむやにされてしまって彼の心の内はわからなかったが……少なくとも、彼は自分との同室を嫌がっていないだろうという事は確認できその事に安堵した。
そして、その夜……フローラとエドリックは長兄夫婦から食事に誘われる。兄妹積もる話もあれば、ルドルフはエドリックに言いたい事や聞きたい事もあるだろう。断る訳もなく、その食事の席に参加した。
その食事会には兄夫婦だけではなく、フローラにとっては甥姪に当たる兄夫妻の子も同席した。彼らはフローラよりも少し年下で、もうすでに子供と言うよりは大人に十分近いだろう。
フローラは出された食事を食べながら、ルドルフとエドリックの話を聞いていた。彼らは何やら小難しい話をしていて、内容はフローラにはあまり理解できていなかったが……エドリックの表情は穏やかであったし、きっと悪い話ではないのだろうとそう思っていた。
「……エドリック様、私少し夜風に当たってきますわね」
「そうかい? では、私も一緒に……」
「大丈夫です。ルドルフ兄様とお話が盛り上がっているようですし……それに私、少しだけ一人になりたくて」
「わかったよ。でも心配だから、私の目の届くところに居てくれ」
「ふふ、何を心配する必要がありますの? ここは祖国ですのよ」
過保護なエドリックへそう言って、フローラは部屋を出てテラスへ。夕食時とは言え、南のレフィーンにおいてはようやく日が落ち始めた時間。テラスからは海が良く見えるが、いつもは透き通るような美しい青い海が黄昏時の朱に染まり始めていた。
本格的な夏を前に、とは言っても既にレクトよりも随分と暑いが……吹く風が生ぬるい。その風を浴びながら、少しばかり感傷に浸る。優しかった父が、なぜ死んでしまったのか……先ほど墓前で祈ってきたばかりだが、もう一度父と話がしたかったと思えば瞳が潤んできた。
と、その時である。
「よぉ、フローラ」
「……ウィル兄様」
自分の名を呼んだ、その声の主を振り返って身体が強張る。なぜ彼が自分に声を掛けてきたかわからない。今までは、近くにいたって彼から声を掛けてくる事なんて滅多になかった。
彼が自分に声を掛けるのは、機嫌が悪い時である。フローラの事を売女の子と口汚く罵ったり、手を上げられた事だって一度や二度ではない。
「お前、随分と幸せそうだな?」
「はい……エドリック様は、大変お優しくして下さっています」
「だが、グランマージ家は商家から成りあがった卑しい家系の上に、お前の旦那は死神だと噂じゃないか。お前は卑しい死神に嫁いだんだ、さぞ惨めで不幸な毎日を送っていると思っていたんだがな」
「……ウィル兄様、私毎日幸せですわ。リリ姉様ではなく、私をエドリック様の元へ嫁がせて頂いた事に感謝しておりますの」
強張り、震える身体を抱きしめるようにしながら……フローラはウィリアムの視線にひるまずそう言う。ここで自分が弱いところを見せれば、彼の思惑通りだと……
フローラの事を不幸にしたいのだと、彼の望みはわかっている。だからこそ、何も情報を持たせないままエドリックに嫁がせた。自分の夫が死神や怪物と呼ばれるような男なのだと、嫁いでから知らされることでフローラを絶望させたかったのだろう。
確かにエドリックは、非凡な才を持ち死神や怪物とそう呼ばれているかもしれない。だが、彼はとても優しい人だ。少なくともフローラの事を傷つけたりはしないし、とても大切にされている。
彼の元へ嫁いで良かったと、フローラは本気でそう思っている。今ではエドリックの事を愛しているし、こればかりはウィリアムに感謝しているのも本音だ。
だが、ウィリアムにはそれが気に食わないのだろう。彼も彼で酒を飲んで少し酔っているようだし、そろそろ手が飛んでくると……そう思った矢先だった。
「……気に食わないなぁ、フローラ!」
やはり手が飛んできた。殴られると、そう思って身構えるが……彼の手がフローラに触れる事はなかった。とっさに瞑った瞳を開けば、フローラを殴りかかろうとするウィリアムとフローラの間にエドリックが立っており、その振り上げた腕をエドリックの右手が握っていた。
「エドリック卿……!」
「……ウィリアム公子、これは何の真似ですか。フローラが、何かしましたか」
「……クソッ! おい、手を離せ!」
「私は騎士ではないから、騎士である貴方に力では及びません。ですが、私は……貴公の手を握るこの手の平から、燃え盛る紅蓮の炎を呼び出すことができる」
「……!」
その言葉の後、ウィリアムは大きく腕を振ってエドリックの右手を払った。彼は左手で右腕を押さえるが、その服からは少し焦げた匂いがしていた。
「フローラ、大丈夫かい?」
「は、はい……エドリック様」
「……フン、嫌われ者同士慣れ合ってろ!」
そう吐き捨てて、ウィリアムはその場を去ってゆく。フローラはエドリックにそのまま抱き寄せられた。身体が震えている。それを、エドリックは見透かしていたのだろう。
「大丈夫じゃないね。言っただろう、私を安心させるためだとしても嘘は吐かないでくれって」
「あ……申し訳ありません、エドリック様。……私、ウィル兄様にすごく嫌われていて……。いつもあぁやって罵られて、手を上げられる事もあって……」
「言わなくていいよ、わかっているから」
エドリックがそう言って、背を撫でてくれる。彼がわかっていると言うのは……上辺だけではなく本当に、わかっているのだろう。過去、ウィリアムがフローラに何をしてきたのかまで……恐らくは、昼間挨拶として握手をしたその瞬間から。
エドリックは声こそ優しかったが、その表情には怒りが滲んでいる。だがきっと、毎日一緒に居るフローラにしか、その些細な表情の変化はわからないものだっただろう。
「うわー!」
と、その時。ウィリアムが去っていった方向から、ウィリアムの声が聞こえた。何事だと二人顔を見合わせ、ひとまず声の方へ向かってみる……それを見た瞬間、フローラは血の気が引いて気を失ってしまった。
階段を降りる時に足を滑らせ、更に頭を打ち付けたのだろう。そして打ち所が悪かった。階段の踊り場が鮮血で真っ赤に染まって……そしてウィリアムは、その血だまりの上に倒れていた。
「ウィリアム公子! ……フローラ」
気を失ったフローラは、エドリックの声だけが聞こえた気がしたが……気づいた時にはテラスの壁に寄りかかる様に座っていた。侍女のアンがフローラに寄り添ってくれていて、ウィリアムが転落した踊り場には、人がたくさんいるのもわかった。
「フローラ様、お気づきですか」
「アン……わたくし、どうして……」
「血を見てお倒れになってしまったんです」
「そうでした……。エドリック様……ウィル兄様は?」
「エドリック様が使い魔で知らせてくれて、皆この場に集まっています。ウィリアム卿には今、エドリック様があちらで癒しの魔法を」
「…………」
アンが視線を向けた方向を、フローラも確認する。階段の踊り場……灯りを手にした人々が集まっているようだが、微かに松明や手燭の明かりとは違う光がフローラにも見えた。
恐らくその光は、今エドリックがウィリアムに施している魔法なのだろうと理解するのに時間はかからない。フローラが踊り場の方を見てすぐ、その魔法の光はふっと消えた。治療が終わったのだろう。
「……残念ですが、これ以上は……」
「そんな……! エドリック卿、どうにか……」
「癒しの魔法は生き物が本来持つ治癒力を高め、治癒の速度を驚異的に促進するもの。死者にいくら癒しの魔法を施しても、治癒力がないのだから治癒のしようがない……魔法とは、奇跡のようで奇跡ではないのです、蘇生はできません」
そして聞こえるエドリックの声。その言葉にフローラは、次兄・ウィリアムの死を悟る。
確かに、フローラはウィリアムの事が苦手だった。いや、嫌いだと言っても良いだろう。だからと言って、こんな形で彼が落命するとは思ってもいなければ、その死を喜ぶわけではない。
父に続いて、兄の死……レフィーンはこれから深い悲しみに包まれる日が続くのだろう。
「ウィル兄様が、亡くなった……? 私が今日、レフィーンに戻って来なければこんな事には……」
「フローラ様、お気を確かに。フローラ様のせいではありません」
「でも……」
「違います。決して、貴女のせいではございません」
「アン……」
アンがフローラを抱きしめてくれる。フローラが今日戻って来なければ、あの時間にウィリアムはこの階段で足を滑らせることはなかっただろう。
だから彼の死は、自分の責任だと……フローラはそう思ったのだが、アンはそれを否定した。いや、フローラが思い詰めてしまわぬようそう言ってくれたのだろう。フローラの瞳には、涙が浮かんでくる。
それは兄の死を悲しむものなのか、アンがフローラに寄り添ってくれた暖かさを感じたからなのか……フローラにはわからない。
「……フローラ、気が付いていたのか」
「エドリック様」
階段を上がってきたエドリックが、そう言ってフローラの横にしゃがむ。アンがフローラから離れたのを見て、今度はエドリックがフローラを抱き寄せた。
「ウィリアム公子は、君の兄上は……亡くなった」
「ウィル兄様……。私が今日、戻って来なければ……」
「君のせいではないから、君も自分を責めるんじゃない。……部屋に戻ろう。立てるかい?」
「はい」
エドリックは先に立ち上がって、フローラに手を差し伸べてくれる。フローラはその手を取って立ち上がるが、少しよろけてしまう。
それを見て、エドリックは優しく微笑んでフローラを抱き上げる……恥ずかしいと思ったが、気力もないままで大人しく彼に身を委ねた。
「義兄上、フローラの目が覚めましたがまだ少しふらつくようなので……私たちは部屋に戻らせて頂きます」
「そうか。エドリック卿、客人である貴公に世話になってしまったな。後の事は、我々に任せてくれ」
「はい。……ウィリアム公子の葬儀が終わるまで、滞在させてもらっても良いでしょうか」
「貴公が問題なければ構わん。ゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
「フローラ、お前もゆっくり休むんだぞ」
「はい、お兄様……」
エドリックの腕に抱かれたまま、フローラは部屋に戻る。入浴は明朝とすることにした。部屋までアンも同行し、部屋に戻れば彼女はいつものようにフローラの着替えを手伝ってくれる。エドリック自身も着替えていたが、着替え終わるまでの間は衝立で部屋を仕切った。
当然、アンも二人がまだ一夜を共にしていない事を知っている。夫婦となって四カ月、フローラが未だエドリックに肌を見せていない事を。だからこそ衝立と言う配慮だったが……
着替え終わってアンが部屋を出れば、衝立の向こうからエドリックがフローラへ声を掛けた。
「フローラ、寝台は君が一人で使うと良い。私はこの長椅子を使うから」
「そんな……寝台で寝ませんと、今日の疲れが取れませんわ。……こちらへいらして下さい、エドリック様」
「だが……昼にも言ったが、狼になってしまうかもしれないよ?」
「……構いませんと、私も先ほど申し上げました」
そう言いながら、フローラは衝立の奥に覗き込む。そこには照れ臭そうな顔をしたエドリックがいて……思わず可愛らしいと、そう思ってしまった。
「……フローラ、私をあまり煽らないでく……」
そして、フローラはそのままエドリックに抱き着く。不意を突かれた彼は、驚きのあまり目を見開いているようだったが……
そのまま彼の胸に顔を押し当て、背に回した腕できつく抱きしめる……
「……わたくし、怖いんです。エドリック様、今夜は私の事を……朝まで抱きしめていてくださいませんか」
「フローラ……」
「勿論、エドリック様がお望みなのでしたら、その……」
「わかったよ、フローラ。朝までずっと君を抱きしめて眠ろう。私達は夫婦だ。健やかなる時も病める時も、互いに支え合うと神に誓っただろう? 見返りなんて、求めないよ。私がこうして君を抱きしめている事で、君の不安を拭う事ができると言うのなら、それは何よりだ」
「エドリック様……」
エドリックはそう言って、フローラの事をきつく抱きしめ返してくれる。彼の温もりが、今は何よりも愛しい。この体温が、何よりも落ち着くのだ。
父に続いてウィリアムの死……父は落馬、ウィリアムは転落。ただの偶然なのだろうが、二人とも『不慮の落下』が原因で亡くなっているのが怖いと思った。
このまま一人で眠ったら、フローラもどこか高いところから落ちて死んでしまう夢でも見そうだと……。だが、エドリックが抱きしめていてくれるのであれば怖くない。
エドリックは優しく微笑むと、フローラの手を引く。寝台に入る様に促され、フローラは寝台へ。エドリックも、フローラに続いて寝台に入る。
そのまま、彼の腕がフローラを包んだ。共に寝るのは初めての事で、胸がドキドキとする。心臓の音がエドリックに聞こえてしまわないだろうかと言う不安の前に、彼の胸に寄せた耳にエドリックの心臓の音が聞こえた。
ドクンドクンと規則的に脈打っているが、その速度は速い。彼も彼で緊張しているのだろうと……そう思えばなんだか嬉しい気がした。
「フローラ」
「はい、エドリック様」
名前を呼ばれ、彼の名を呼び返しながら顔を覗き込む。そうすれば、彼はそっと顔を近づけ瞳を伏せ……フローラも、それに倣った。口づけは、眠る前の毎日の日課でもあった。
そっと触れ、ゆっくりと離れる。そうすればエドリックは『おやすみ』と、いつもよりも照れ臭そうな声でそう言った。
だからフローラも『おやすみなさい』と言いながら微笑んで……彼の胸にその身を委ねながら目を瞑る。
……緊張のあまり中々眠れなかったが、疲れてはいたのだろう。知らぬ間にしっかりと眠っていたようで、気づけば朝陽が昇り始めていた。
疲れていたのだろう、エドリックはまだ眠っている。その寝顔が愛しいと、フローラはそう思いながら……エドリックが目覚めるまで、彼の腕の中でそのぬくもりを感じていた。
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