第7話
「遠征……ですか」
「あぁ、南東グロスター領の森にウェアウルフが棲みついたと言う話は前から聞いていたんだけど……周辺の町村で家畜が襲われる被害が出てきたんだ。人間に被害が及ぶ前に今度退治しに行かなくてはいけなくなってしまって」
それは、レフィーンから戻ってきた直後。フローラはエドリックに抱かれた後で少し気怠く、ぼんやりとしていたのだが……エドリックはそんなフローラを抱きしめ、髪を梳くように撫でながら言う。
「危険では、ないのですか」
「うーん、正直……君もこの間、レフィーンに行った際に私の魔法の腕は見ているだろう? ウェアウルフ程度なら、私には子犬のようなものではあるけれど。新兵にも経験を積ませないといけないし、新兵には結構な脅威かもね」
フローラはそうじゃない、と眉を下げる。フローラが案じているのはあくまでもエドリックの身だ。もちろん、彼が言うように先日の戦闘を見ているので彼が強い事は知っているのだが……
『私には子犬のよう』と言うからには、エドリックにしてみれば特に脅威ではないのだろう。だが、魔物退治となると何があるかはわからないし、フローラが心配するのは最もでもあった。
そんなフローラに『大丈夫だよ』とエドリックは言って笑うが、その後にぎゅっと強く抱きしめられる。
「行きたくないなぁ」
「エドリック様……」
「折角君とこうして抱き合う関係になったと言うのに、暫くの間会えなくなるなんて辛いよ」
「……私も、同じ気持ちです。それに加えて、私はあなたの身を案じなくてはいけないのですよ」
「私の身は案じなくても大丈夫だよ。私は強いから、死にはしない」
「……エドリック様がお強くても心配です。死にはしないって、お怪我はされるかもしれません」
「怪我もしないよ、大丈夫」
そう言いながらエドリックはフローラの額に口づける。フローラはエドリックが『行きたくない』と意外な事を言ったことに驚いたのと同時に、フローラと離れたくないと思ってくれている事が嬉しかった。
フローラ自身だってエドリックの事が心配だから行ってほしくないとそう思うが……彼の立場を思うと、そう言う訳にはいかないのだろう事はわかっている。
だから、どうか無事でと……そう、祈るだけだ。騎士団と魔術師団の一部隊が遠征に行く日はあっという間にやってきた。
「お気をつけて」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「はい。……あの、私お守りを作ったんです。効き目があるかはわかりませんが、お持ちいただけますか」
「お守り……? ありがとう、嬉しいよ」
グランマージ家からまずは王宮へ向かうエドリックをいつものように玄関先で見送るが、フローラは手作りのお守りを手渡した。きちんと教会で司祭に祈りを捧げてもらっている。
心配しなくても大丈夫だとエドリックは言っていたから、お守りなんて用意すると大袈裟だなと言うのかと思ったら素直に『嬉しい』と言ってくれてフローラも嬉しかった。
だが戻るのは一週間ほど後だと言うし、そんなに会えないのは寂しい。心配するなと言われても、不安ではあるし心配はする。
お守りを受け取ったエドリックはそのままフローラの事を強く抱きしめ、暫くの間触れる事が出来なくなることを名残惜しんでいるようだった。フローラもエドリックの背に手を回す。不安で、瞳に涙が溜まってきた。
「大丈夫だって、心配しないで。君のくれたお守りもあるし」
「……はい」
涙声で返事をする。フローラが知らぬ間に、魔術師団は城下を出て近隣の村へ魔物の討伐へ行っている事もよくある事ではあるのだが、やはり知らない間に外に出ているのと外に出るのをわかっていて送り出すのでは気持ちが全く違う。
いつもは王都周辺で、何かあってもすぐ助けだって出せるだろう。だが、今回は片道三日か四日ほどかかるような場所。何かあっても助けは呼べないではないか……
そうしている間に、エミリアが玄関の後ろから姿を現す。彼女もエドリックの見送りかと思えば、エドリックには何も言わずに馬車に乗り込んだ。
「エミリア様……」
「レオンのところへ行ってくるんだろう。今回の遠征は、レオンも一緒だから」
「……エドリック様にも、一言かけていけば良いのに……」
「今更だよ。さ、もう行く時間だ。名残惜しいけれど」
エドリックはそう言って、フローラの額に優しく口づける。抱き合っていた身体が離れ、エドリックは用意されていた馬に跨った。
「では行ってくる」
「……お気をつけて、エドリック様。あなたの無事をお祈りしております」
エドリックが屋敷の敷地を後にし、辻を曲がりその後姿が見えなくなるまでフローラはじっとその姿を追う。彼の姿が見えなくなって屋敷の中へ戻ってから、改めて外出の準備をした。
声はかけられないかもしれないが、騎士団と魔術師団が遠征へ行くのを城下の門のところで改めて見送ろうと……そう、思っている。恐らくは小一時間後、出発になるだろう。
フローラが準備を終えた頃エミリアが屋敷に戻って来て、彼女も彼女で少しばかり不安げな顔をしていた。エドリック曰く、レオンはとても強い。彼の事も心配する必要はないのだろうとフローラは思う。
だが、それでも心配になるのが乙女心と言う奴で……きっと、エミリアはフローラが嫁いでくる前から遠征へ行くレオンを何度も見送ってきた。彼女が魔術師を目指した理由の一つに、魔術師団に入ればもしかしたら一緒に遠征に行く事が出来ると言う想いがあるのかもしれない。
……帰りをただ待つだけと言うのは、歯がゆい。
「……お義姉様、後で城下の門まで兄様を見送りに行く?」
「はい、そのつもりです。エミリア様も、レオン様のお見送りに行かれますか?」
「えぇ。……何度見送っても、レオンの実力を知っていても、無事に帰ってくるまでは気が気じゃないわ」
「エミリア様……」
「お義姉様は今回が初めてだから、余計にそう思うわよね」
「はい……ご無事をお祈りする事しかできないのが、もどかしいです」
「そうよね。……私だって、魔物と戦えるのに」
エミリアはそう、呟く。魔術師団の規定上、満十五歳になったその翌月から師団入りを志願できる。だが、魔術師団長……エミリアの父親であるエルバートは彼女の魔術師団入りを認めなかった。
女性の入団が不可と言う規則があった訳ではない。そもそも、女子の志願者が出る事は想定されていなかった。だからエミリアは女だからと言う理由だけで魔術師団には入れず、その後しっかりと規則に『入団は男子に限る』と付け加えられたと言う。
待っているだけが辛いのは同感ではあるが、魔物と戦うなんて事は恐ろしくて考えた事もなかった。エミリアのように、守られるだけではなく戦う覚悟があると言うのは格好良いとフローラは感じたのだが、女は男に守られているだけでいい。
それが、この世界では当たり前の価値観だ。外敵と戦うのは男の仕事で、女は家庭に入って家を守る。誰もがそれを、疑問に思う事はない。
暫くした後、今度はエミリアと共に馬車に揺られ城下と外界とを隔てる門へ。そこは既に、フローラ達と同じ考えの騎士や魔術師の家族たちで溢れ返っていた。
そしてフローラ達が到着してから間もなく、騎士団と魔術師団の一同が馬に乗って門の前にやってくる。通りからは、彼らを激励する声が飛び交っていた。
「エドリック様……」
フローラはエドリックの姿を見つけると、小さく手を振る。エドリックはそれに気づいてくれたようで、彼もフローラへ手を振り返してくれた。
普段は閉まっている城下と外とを隔てる門が開き、騎士団と魔術師団が外へ出ていく……どうかご無事でと、フローラは改めてそれを祈った。
普段であればフローラはエドリックが戻ってくるのを待って共に夕飯を食べるが、その日からエドリックの戻りを待つ必要がなく彼のいない食卓はなんだか寂しかった。
魔術師団長である義父は王宮に詰めているようで不在、義母と義妹……女三人の食卓となる。
「フローラ、エドリックが不在で寂しいでしょう」
「はい、お義母様。私がレクトへ来てからエドリック様がいない夜は初めてですし……お怪我をされないよう、ご無事をお祈りする事しかできないのが……」
「女は待つしかないのよ。ねぇ、エミリア」
「……そうさせているのは、お父様とお母様でしょう? 私は、待つだけは嫌よ。私だって魔法、使えるのに」
「お黙りなさい、エミリア。いい加減、貴女もフローラのような淑女におなりなさい。貴女はあと二年でレオン様の元へ嫁いで、将来は公爵夫人となるのですから」
「わかっているわよ。貴族の娘として、レオンの婚約者として社交の場に出る時は、きちんと淑女を演じているじゃない」
「必要な時に演じるだけではなく、普段からそうなさいと母は言っているのです」
義母は、いつもエミリアに小言を言っていた。エミリアもいちいち小言を言われるのが煩わしいのだろうが、反抗期なのか一向に態度を改める気配はない。
いつものようにツンとした態度をとるエミリアに、義母ははぁとため息を吐く。そして、思い出したようにフローラへ言った。
「それはそうとフローラ、貴女は最近エドリックと共に寝るようになったみたいだけれど、順調かしら」
「え? は、はい……順調、だと思います……」
「私たちもやっと安心したのよ、貴女とエドリックが共に寝るようになったと聞いて。一体いつになったら孫の顔が拝めるのかと……」
「ご、ご心配をおかけしておりまして申し訳ございませんでした。ですが、子供がいつできるかは神の御心次第ですわ」
「それはそうね。でも、男児でも女児でも良いから、貴女には早くエドリックの子を産んで欲しいわ。もちろん、跡取りとなる男児を生んで欲しいのはやまやまだけれど」
「はい……」
男の子を生まなければと、フローラにはそう重圧がかかる。もしもエドリックに男児が生まれなければ、将来的にグランマージ家は義父の二人いる弟のうち上の弟の家系に家督を譲る事になる。
義父の二人の弟は、いずれも家を出て商売をしているとエドリックから聞いていたが……二人どちらも貴族らしくなく根っからの商売人だと、エドリックが笑いながら言っていた事を思い出した。
「でも、あの死神だ冷徹だと言われたあの子が、こんなにも妻想いの優しい夫になってくれて良かったと、心からそう思うわ」
「お義母様……」
「私は、今でこそ主人の事を愛していますが……結婚した時には、他に想う方がいたの。主人(あのひと)の事は、何度か社交場で会ったことがある程度の間柄で……無理やり結婚させられ、初夜はただ声を押し殺し、全て終わった後眠る主人の隣で一人泣いていたわ」
「…………」
「それがエドリックときたら、フローラに嫌な思いをさせたくないと言って今の今まで同衾を避けていたのでしょう?」
「はい。お義母様の今のお話を聞いて、私エドリック様が夫で本当に良かったと思いました」
「そうでしょう。……あの子は、口では他人が何を言おうがどう思われようが気にしないとは言いながら、あなたにだけは嫌われるのが怖いのでしょうね。だから腫物を扱うように、大事に大事に……慎重になっていたのでしょう」
「はい」
「これからも、エドリックと仲良くして頂戴ね。あなたにはあの子の孤独を、受け止めてあげて欲しいの」
「お義母様、勿論ですわ。私、エドリック様に救われたんです。私もレフィーンでは一人、孤独でした。ですが今はグランマージ家の皆様が良くしてくれて……嫁いできて良かったと、そう思っておりますの。エドリック様が私の光なんです」
紛れもない本心。義母はフローラのその言葉に感動したようで、瞳を潤ませていた。エドリックが皆に嫌われている事が、やはり親としては悲しい事なのだろう。
いくら本人が気にしていないと言っても、妻・フローラと言う理解者がいる事が喜ばしい事なのだろうとそう思う。そんな義母とフローラとのやりとりを、エミリアはうんざりとした顔で見ていたのだが……
「……みんな兄様の事しか見ていないのね」
エミリアがそう小さく呟いた事は、フローラの耳には入っていなかった。
エドリックが遠征に出て、あっという間に八日経った。この八日間フローラは寂しさと不安で押しつぶされてしまいそうだったが、それも今日までだ。
騎士団と魔術師団の一行が王都へと戻ってくるのは今日の夕方頃になるだろうと、先遣の騎士が触れて回っている。エミリアも朝からそわそわとしており、彼女も婚約者であるレオンの帰りを待っている事が傍目にもよくわかった。
「エミリア様、夕方まで私とお出かけいたしませんか」
「お義姉様……そうね、ただお屋敷に居るのも時間が経つのが遅く感じるだけだもの」
「えぇ、折角お天気も良いですし……大聖堂へお祈りに行って、それからお散歩でも」
と、いう訳でフローラはエミリアと二人外出することに。もちろん教会までの道中は馬車である。彼女らのような高貴な身分の人間が、歩いて外出などは考えられない。
『お散歩』も、城下の見学であれば実際のところは馬車から外の景色を優雅に眺めるものだが、今回は王宮の見事な庭園を二人で歩くつもりであった。
フローラの提案にすぐに馬車が準備され、フローラとエミリアも外出用の服に着替える。馬車にはアンと、エミリア付きの侍女も同席する事となった。
王宮内の大聖堂は、一般人には普段は解放されていない。貴族だからこそ王宮内への立ち入りが許され、大聖堂へ祈りを捧げる事もできる。
馬車は王宮の大聖堂へ横づけされ、エミリアと二人大聖堂に入り祈りを捧げ……御者と侍女の二人はその場で待たせ、フローラはエミリアと二人で庭園へと向かう。
本来なら、この侍女らも同行すべきだっただろう。だが、エミリアはどこに行くのも侍女がついてくるのは息が詰まると言ってそれを拒否した。『王宮内なのだから危険はないし、お姉様がシャペロンだから平気よ』と、そう言って。
……未婚の令嬢であるエミリアは、婚約者であるレオン以外の男性と話をすることが許されない。他の男性と話をするときには親族の男性が同席するか、シャペロンと呼ばれる既婚の付添人女性がいる場でなければいけない。そうでなければ、彼女の評判に傷がつくのだ。
男と二人で何を話していたのか、みだらな事をしていたのではないか……など、それが事実であろうが嘘であろうかは関係ない。
とにかく、親族と婚約者以外の男性に会う事は不純な事とされ、エクスタード家から婚約解消を申し入れされてもおかしくない程の事案なのである。故意に会った訳ではなく、ただ散歩中にうっかり二人きりになってしまったのだとしてもそれは成り立つ。
とにかくこの時代……未婚の令嬢と男性が二人でいるような場面を誰かに見られれば、貴族令嬢の人生は終わりだったと言っても過言ではないだろう。
「お義姉様、あそこにアントニア王女がいるわね」
「本当ですわね。ご挨拶に伺いましょうか」
「あら……エミリアに、フローラね。ご機嫌よう」
「ご機嫌麗しゅう、アントニア王女殿下」
王女も同じく庭園を散歩中だったのだろう。アントニアはエミリアよりも年下の、まだ少女である。エドリックとエミリアの父……フローラにとっては義父のエルバートの母が先代国王の妹であり、現在の国王が従兄弟と言う関係。その娘同士のエミリアとアントニア王女は再従兄弟(はとこ)の関係となる。
とは言えグランマージ家は王家にとっては分家であり、エミリアもその身分はわきまえている。いくら王女が年下の親戚だからとは言っても、きちんと目上の人に対する敬意をもった対応をしていた。
「珍しいわね、エミリア。貴女が来ているのは」
「……お義姉様に誘われましたの。今日、騎士団と魔術師団が戻ってくる予定でしょう? お屋敷に居ても、落ち着きませんから」
「そうでしたわね、今日騎士団と魔術師団が……レオン様もお戻りになられるのね」
「……えぇ」
フローラはその一言とエミリアを敵対視でもするような王女の鋭い視線に、ピンとくる。王女は、きっとレオンの事が好きなのだろうと。
国一番の公爵家の子であるレオンは、王女の降嫁先としては悪くないはず。だが王女が生まれるよりも先にレオンとエミリアは婚約しているし、エクスタード家とグランマージ家がつながる事は両家にとってとても大切な事なのだと聞いている。
そう言った事情もあり、よほどの事がない限りはアントニア王女の結婚相手にレオンが選ばれることもなかったであろうがそれでも、叶わぬ恋でも……王女はレオンに恋をしているのだ。
エミリアもエミリアで王女の恋慕の相手が誰かわかっているようで、王女がレオンの名を口にするのが面白くないと言うような表情だった。
「では、王女殿下。私たちは失礼致しますわ」
「えぇ、フローラ。今度またお茶に誘うわね」
「楽しみにしております」
エミリアに気を遣って、フローラはアントニアに別れを告げお辞儀をする。アントニアはにっこりと笑ってフローラ達に手を振った。
王女と離れ、更に庭園を歩けば……エミリアはぽつりと言う。
「王女(あのこ)、レオンの事が好きなのよ」
「……なんとなく、わかりました」
「私に当てつけるように、レオンの名前を出すのが気に食わないわ」
「……エミリア様、ひとつお聞きしても?」
「何かしら?」
「エドリック様が、レオン様は女性人気がとても高いと仰っていました。レオン様は公爵家の跡取りと言う事に奢らず謙虚で、所作も美しく知性的な佇まいですし……何よりうっとりとするような美貌まで持ち合わせていて、人気がない訳がないと私だってそう思います」
「……そうね」
「レオン様が社交の場に出れば、きっと女性は引く手数多でしょう? いくら婚約者と言っても、不安になったりはしないのですか?」
「不安?」
「私はエドリック様の妻ですけれど、皆さんがエドリック様の事をもっと知って勘違いさえなくなれば、エドリック様の周りにも女性が集まる様になって、エドリック様が他の女性に目移りしてしまうんじゃないかって……そんな不安に駆られたりもしますの」
エドリックだって、伯爵家の跡取りである。彼も知的で、切れ長の……どこか憂いを帯びた瞳が魅力的だし、妻だから贔屓目に言う訳ではないが美男子であろう。エミリアに対するレオンの行動に負けないくらい、フローラに対しての行動も優しく慈愛に満ちている。
そんな彼の魅力に気づけば、世の女性達は彼の事を放っておかないはずだ。何度も愛してると囁いてくれた彼の事を疑う訳ではないが、自分自身に自信のないフローラにとってはもっと魅力的な女性が彼の前に現れればどうなるのか……と、そう考える事だってあるのだ。
それこそ、レフィーンに戻った時にウィリアムには『もう飽きられたのか』とそう言われた。自分自身何も取柄もなく、つまらない女だと自覚しているからこそ彼の言葉は胸に深く刺さっている。
「……兄様は、お義姉様を不安にさせるような男だったかしら? そんな態度、兄様が取ったことある?」
「いいえ、私が勝手に不安になっているだけですの。エドリック様は私の事を愛しているとそう言ってくれていますし、その言葉に嘘偽りはない事はわかっていますが……」
「私は兄様の事は嫌いだけど、これだけは言えるわ。兄様は、お義姉様の事を傷つける様な人じゃない」
「それは、私もわかっております。ただ、私が自分に自信がないだけで……」
「だったら、兄様の事信じてあげて? 私は、レオンに近づく女性がたくさんいるのは知っているし、その事は確かにいい気はしないけれど……不安に思ったことは一度もないわ。レオンは私を裏切るような人じゃないって知ってるから」
「エミリア様……」
レオンとエミリアは誰にも見えない……深い深い絆で強く結ばれているのだろうと、彼女の強い瞳を見て思う。エミリアにとってレオンは物心つく前から隣にいた存在であり、誰よりも信頼していて……それは、まだエドリックとフローラにはたどり着けていない場所なのだろう。
フローラだって、エドリックの事を愛しているし信頼している。だが、自分に自信がない。こればかりは、生まれ持った性格のせいだろうか……だが、エミリアが言うようにエドリックはフローラを傷つける様な事は絶対にしないだろうし、もっと自信を持てとアンにも以前言われた。
エミリアが羨ましいと、フローラはそう思う。フローラだって自信たっぷり『不安に思ったことは一度もない』なんて言ってみたい。
「エミリア様はお強いですわね。……そろそろ大聖堂の方へ戻りましょうか」
「そうね、それから城壁の方へ行けばちょうど騎士団と魔術師団が帰ってくる頃かも」
それからもう少しだけ庭園を歩いてから大聖堂の方へ戻る事に。御者と侍女二人が、フローラ達の戻りを大聖堂の近くで待っていた。
戻って城壁の方へ向かってもらうように言って馬車を走らせてもらうが……城を出た直後、フローラは急激な眠気に襲われた。城壁のあたりへ着くまでに少し時間がかかるので、この馬車の心地良い揺れに身を任せて眠ってしまおうかと……うつらうつらとしているうちに、隣に座っていたエミリアがフローラの肩にもたれかかってくる。
エミリアも眠いのかと、そう思っているうちに……目を瞑ってしまったのは、完全に無意識だった。
目が覚めた時、そこはうす暗い部屋だった。馬車の中で眠ってしまったはずなのに、なぜ冷たい床の上に寝転がっているのか。部屋にはエミリアも、二人の侍女もいない。フローラ一人で……気づけば足と、手も後ろ手に縛られている。
寝ぼけた頭が冴えてやっと、自分の状況を理解した。そう、何者かに誘拐されたのだと……一体誰が何のために。もちろん、自分の身分の事はわかっている。自分を人質に強請れば、グランマージ家から身代金を得る事だって出来るだろう。
「……エドリック様」
部屋に差し込む光は、微かに朱みがかっていた。夕方、太陽が西へ向かって落ちてきたのだろう。エドリックはもう、王都へ戻ってきただろうか……戻って来ているのなら、フローラが誘拐されたことに気づいて助けに来てくれるだろうか。
不安と恐怖で、瞳に涙が溢れてきてガタガタと震えてきた。どうにか手足を拘束している縄をほどいてこの部屋から出られないかと思うが、もがいてみても縄をほどく事は出来なさそうだ。
「お目覚めか」
「……誰?」
「先日、お前の旦那に兄貴を殺された。あんたに罪はないが、兄貴の仇を討つのに協力してもらうぜ。魔術師団は先ほど戻ってきたところだ。そろそろあの『死神』が、あんたが居ない事に気づく頃だろう」
誰と言うフローラの問いに答えながら、床に転がされたフローラを一人の男が見下している。彼の口ぶりから、エドリックの裁判によって極刑となった男の弟だと……それは想像できた。
だが、どうやってフローラを誘拐したのか。エミリア達はどこにいる? 疑問は残っているが、聞いたところで答えが返ってくるかはわからない。それよりも、フローラを見定める様な男の目つきが気持ち悪い……
「改めて見ると、あんたいい女だな。……あんたが俺に犯されている姿をあの死神が見たら、発狂するんじゃないか」
「……触らないで!」
背筋がゾクリとする。この男は今何と言ったか。
すっと伸ばされた手がフローラに触れる前に、声を張り上げる。男はニヤニヤと笑っていた。
「どうせ旦那とは仲良くやってるんだろう? へへ、いいじゃねぇか。生娘な訳でもあるまい」
「お控えなさい! 私は、あなたのような下衆が触れて良い存在ではありません!」
「おぉ、これは怖い。大人しい貴婦人だと思っていたが、そんな風に声を張り上げる事もできるのか。だが、貴族様かもしれんが、あんたは女だ。それに身体を拘束されている。俺に抗う術はないって事よ」
男の手がフローラの頬に触れる。嫌悪で背筋がぞわぞわとして、全身の肌に鳥肌が立った。
「私はレフィーン公女として生まれ、現在はジルカ男爵の夫人です! こんな事をして、許されると思っているの!? それに、あなたは主人を甘く見ています。どうやって主人を陥れようとしているのかは知りませんが、私に手を出そうものならあなたの命は地獄すらも生ぬるい煉獄の炎に焼かれる事になるでしょう……!」
と、その時だった。部屋の扉が勢いよく開けられ、駆け付けたのは息を切らしたエドリックである。
「エドリック様……!」
「フローラ……! あぁ、無事でよかった」
「おいでなすったな、死神! 近づいてみろ、お前が何より大切にしているこの女……ブッ殺すぞ!」
「……汚い手で、フローラに触るな」
それは、今まで見た事のない顔だった。エドリックの透き通るような淡い緑の瞳が、燃え盛る炎のように一瞬真っ赤になったと思えばフローラに刃物を突きつけた男は『ぎゃぁぁぁぁ!!』と叫んでその場に倒れ転げまわる。
一体何があったのか、フローラにはわからなかった。だが、男が床に転げ回っている横をエドリックは小走りで駆けてくれて、フローラの腕と足を縛っていた縄をほどいてくれる。
エドリックが助けに来てくれた事に安堵し、思わず瞳に涙が溢れ……彼にぎゅっと抱き着いて、そうすればエドリックも強く強くフローラの事を抱きしめた。
「エドリック様! ご夫人は無事でしょうか!?」
「無事だ。犯人はそこに転がってるよ」
「……覚悟しろ、逃げられないぞ!」
一足遅れて、騎士が部屋にやってくる。騎士は転がり回っている犯人の横にしゃがめば、エドリックが一度視線をそちらに移した。
そうすると犯人は転げまわるのを止め、はぁはぁと肩で呼吸をしながら『痛ぇ……痛ぇよ……』とうわ言のように言いながら肩を抱いている。
一体エドリックが彼に何をしたのか……何をしたのか聞く余裕も、フローラにはまだなかった。まだ震えが止まらない。
「本当に……本当に、何もなくて良かった」
「エドリック様……」
「怖かったね。もう大丈夫だから」
「はい……」
エドリックが優しく背を撫でながら、ゆっくりと深呼吸をするように指示をしてくれた。その間に騎士が犯人の男を縛り上げ、外へ連れて行く。
少し落ち着いたところで、フローラはエドリックに聞いた。
「どうして、私が誘拐されたとわかったのですか?」
「君の出迎えがなかったから、不思議に思ったんだ。君は絶対に、私の帰りを出迎えてくれるだろうと思ったから……。だから屋敷に使い魔を飛ばしたら屋敷に君はいないようだったし、何かあったのかと思って私の全情報網を使って君の事を探して」
「そう、だったのですね。あ……エミリア様は!?」
「外に我が家の馬車がある。エミリアと侍女は馬車の中だ。そちらはレオンに任せてあるけれど、どうやらあの男は御者として我が家に潜り込んだようだね。君たちが城の庭園を散歩している間に気化式の鎮静薬を馬車に撒いておいて、君達を眠らせた。全員縛って、まず君をこの部屋に連れてきたところだったようだ」
「そうですか……皆が無事であれば、それは良かったです」
「あぁ。……それにしても私を敵に回すなんて、よほど馬鹿なのか無謀なのか……。いや、その両方かな」
「エドリック様に兄を殺されたと、仇を討つのに私に協力してほしいと……そう言っていました」
「……少し前に死刑が執行された男の『弟分』だね。本当の兄弟ではないようだが、随分と慕っていたんだろう。すまないフローラ、私のせいで君を怖い目に遭わせてしまった」
「大丈夫です。エドリック様が、助けてくださいましたから……」
また強く抱きしめられる。フローラはエドリックの顔を覗き込んで、そうすれば優しく口づけられた。
それから部屋を出れば、どうやらここは森の中の小屋のようで青々とした木々に囲まれている。時刻は夕方になっていた事もあり、中々にうっそうとしていた。
「お義姉様!」
「エミリア様……」
「お怪我はない? 大丈夫?」
「えぇ、大丈夫です。大事になる前に、エドリック様が助けてくださいましたので……」
「よかった……」
「エミリア様も、ご無事で何よりです」
そう言いながら、エミリアと抱き合う。エミリアはポロポロと涙を零しながら、フローラの無事を喜んでくれた。
この涙は、フローラが無事な事へ安堵したのと同時に自分自身も怖かったのだろう。エミリアは震えていた。その様子を見て、そばに居たレオンが言う。
「エミリア。君の義姉上に何もなくて良かったが、君自身も被害者だ。君だって怖かっただろう」
「そんな事……」
「いいからこっちへ来い。震えてるぞ」
レオンはフローラに嫉妬したのだろうか。半ば強引にエミリアをフローラから離し抱き寄せ、背を優しく撫でる。エミリアは少し頬を膨らませて、『そんな事ないわ』と……そう言いたそうな顔をしていた。
それを見たエドリックは苦笑している。エドリックが苦笑した理由は、フローラにはわかる気がした。
単に自分がエミリアを慰めたいだけだろう、と……フローラも二人のその様子を見て、クスリと笑った。そのフローラの肩を、エドリックは優しく抱き寄せる。
「エドリック様……?」
「レオンも大人げないね。帰ろうか」
「はい」
優しく微笑むエドリックに、フローラは微笑み返す。だがフローラはまだ知らなかった。エドリックのその微笑の裏には、先ほど捕らえた男への憎悪が未だ燻っている事に。
その夜『何もされていないか』を確かめるために、息が絶え絶えになるほど身体の隅々まで調べられる事になるという事を……
そして、エドリックの『過去を見る力』さえあれば、そんな事をしなくてもすぐに確認できると気付いたのは翌朝になってからの事だった。
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